――へ。
 ――菊名おまえ、出身何処やったっけ。
 眠そうな眼を瞬かせて、一食の卓子の対角線上から問う声がした。秋口で、金木犀が
やけに薫り高くて、波音のように押寄せる騒めきに、切って貼ったように馴染まない
声だった。
 ――逗子……、ですけど。
 ――ほぉ。ええとこやなあ。
 ふらっと行くには最適や――。冗談とも本気ともつかぬ口調で、あのとき慥かに、
中原は言った。
 気付いた時には、始発に乗っていた。




B




 根拠などなかった。見つけることが出来たのは――まるきり偶然の産物だ。
 急な斜面を刳貫(くりぬ)いた、不恰好で、けれど優しい色をした切通しの下――小さい頃は
善く遊んだ。水捌けの悪い砂を削って絵を描いたり、かさかさに乾いた塀に座って
寒寒しい色合いの沖を眺めたりした。そんなことを熟熟(つらつら)と、あの一食の窓際のサークル
席の端と端で、菊名はかれに話して聞かせた。すぐ側にある灯台の、幹に書かれた
連番まで教えて。珍しく、殊の外拙い饒舌で。
 誰の話を聞く時でも、変わらない顔が笑っていた。(あな)を開けたような、黒黒と
した巴旦杏(アーモンド)型の、寝惚けたような優しい眼。
 見慣れた厚手のパーカーに、穿き古したジーンズと踵の潰れたスニーカー。あの
砂壁のアパートから、ひょいとコンビニにでも出て来たような出立ちで、それでも迚も
寒そうに、頸を竦めて中原はそこに居た。あまり視力の善くないと云うかれが、遠くの
板書を読むときのような、何だか眩しそうに眇めた眼で。
 根拠などなかった。見つけることが出来たのは、まるきり偶然の産物だ。かける言葉
など見つからなかった。元元の持合わせも多くはない。
「おお寒ゥ――」
 不意に声がした。
 潮騒に全く、馴染まない声だ。
「里帰りかぁ」
 もう正月やしなあ――。菊名の答も待たずに、いつものように勝手に決めて、同じ顔で
中原は笑った。あの日窓際の西陽の差す席で、何故だか食堂に居着いてしまった黒斑(くろぶち)
猫を撫でながらして見せたのと同じ――誰にでも見せる、ひしゃげたような笑い顔で。
 無色透明(モノクロ)の世界を裂いて、あっけなく明けていく空が海を映していた。
 寝惚けたような、優しい眼。鼻の頭が少し赤かった。
 吐く息が、白かった。


「ええとこやなあ、逗子」
 ふらっと行くには最適や――。


 そんな風に言われてしまうと尚更返す言葉がない。()したる訳などないのだと笑われて
しまった。そんなのは嘘だと、責めるほどに菊名はかれのことを知らない。何も、何も
知らない。
 どう、どう――。
 潮騒が聞こえた。
 かれはまだ、夜明けの名残のそのまた向こうを見ている。不自然に曲げられた、頸の筋。
無造作に伸ばしたままの、長くも短くもない黒髪が風に(そよ)いでいる。沖合から吹寄せる
それは生きた気配にみちていて、真冬だと云うのに、(なまぐさ)く頬を撫でる。見慣れたはずの
光景が、そこに立つ人の所為でまるで知らぬもののように映った。酷く落着かぬ。
凍えてしまいそうに。
「……ずっと、逗子(ここ)に?」
「あほぉ、通報されてまうわ」
「そういう意味じゃ、ないです」
 思いがけず強い言葉が喉を擦抜けて、どこか高いところでいつも視ている別の自分が
驚いているのが判る。けれど、止めない。声が震えた。


「……そういう、意味じゃ、ないです」


 せやんなあ――。
 ふはっ、と、白い息を吐出すように笑って、中原は顔だけをまた、空に向けた。
 ぎりぎりの場所から、それでも手を伸ばしたのに、
 払除けられたような、いやいっそ気付かれもしなかったような、
 丁度そんな、気持ちだった。


「姉ちゃんがなぁ、居ってん」
 知ってたけどな――。
 ぴったりと鎖された重い戸の向こうから、いつもどおりの声がしても、それが何の
ことなのか、何をすればいいのか、目隠しをされたままの菊名には判らない。ただ
潮騒に、全く馴染まない声だ。(そぐ)わない立ち姿だ。そんなことしか。


「そう云や、名前も知らんわ」
 冗談とも、本気ともつかぬ口調で中原は言った。
 そしてもう一度振向いて、初めて菊名に話しかけた。
「ああ、せや、明けましてお(めでと)う」
 思きし言い忘れてた――。
 何を言っているのだろう。この人は。そんなことこそ、どうだって善い、ことなのに。
 世界が揺れた。果敢無(はかな)いものになってしまった。殆ど信じ難いほど、不確かで、
不可解なものに。
 息が上がった。苦しかった。
 苦しくて人は泣くのだ。そう思った。悲しいからでも、嬉しいからでもなく。息が
詰まりそうで。立っていられなくなりそうで。
「は、おい、何泣きやねん」
 呆れたような、困ったような声が矢張り茶化すので、それだけで話は終わってしまう。
頑として戸は開かない。
 おれが悪いみたいやんか。
 この場所に少しも、馴染まない声がした。
 そんな風に言われてしまうと、余計に返す、言葉が――。





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中原某を思いきり殴りたい。笑。
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