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C
どこ行ったんですか。みんな心配してますよ――。我ながら間抜けだと胸を張って言える
文面を、白白と映し出す携帯を閉じて投げた。思い切り投げた。
みんな
(
、、、
)
の所為にするなんて
石川みたいだ、と可笑しくなる。覗いた笑みは渇いている。
あの菊名が、自分自身に必要なこと以外は殆ど何ひとつしないあの子が、真逆本当に
消えた男を捜しに行くとは思わなかった。
況
(
まし
)
て見つけるなどと、誰が思うだろう。出来
過ぎだ。莫迦にしている。
「まるで笑い話か、善いとこ
狂言
(
ドラマ
)
だな」
いっそ哀れむような素振りで谷崎が言った。こんな時でも気の効いた言い回しを忘れぬ
男だ。無性に肚が立つ。
「煩瑣え」
吐捨てると思ったよりすっとした。宮沢と谷崎は、
連
(
つる
)
んでいる割に馬が合わない。思い
遣る必要も価値もないもの相手には思いの外楽になれると、互いに常常思っている。気兼ね
ないと云うよりは、詰り合い罵り合うような関係だ。それでもこうして、どちらかの自室に
余人を挟まず
屯
(
たむ
)
ろしたりする。縁は異なもの味なものなどと云うものもあるが、一粍の得も
ない関係もこの世にはあると云うことだろう。いずれ碌なものではない。
「ここまでくるともう、何も感じない方が凄いね。あの引きの強さは
徒事
(
ただごと
)
じゃねえだろ。
何の運命だ」
放り出した携帯を
凝乎
(
じっ
)
と
注視
(
みつめ
)
ながら、自嘲気味に笑う。案の定鼻先で笑い飛ばされた。
当然だろう――。
「あの御方をどなたと心得る。天下の中原様なるぞ。自慢じゃないがおれはな、この一年と
数ヶ月間、あの人との
真面
(
まとも
)
な会話に成功した
例
(
ためし
)
がねえ」
「莫迦げてる」
「仕方無いだろう。あの人にばかり非がある訳じゃない。生きてる世界が違うとしか言い
様がねえ」
谷崎の言う事などが
吃驚
(
びっくり
)
するほど腑に落ちて、尚更苦苦しい沈黙を続けた。宮沢にとって
世界は、
挙
(
こぞ
)
ってかれに優しくて、時に勘違いしてしまいそうになるほど物分かり良く見せ
かけて、本当に欲しいものに気付いた瞬間掌を返す油断も隙もないものだった。常に
微
(
うす
)
朦朧
(
ぼんやり
)
と灰色で、発色の悪い、少しも眼に沁むところのない一枚絵のような光景だ。けれど
あの人の見た世界は違うのだろう。息が止まりそうなほど、ぎっしりと煌めくのはそれでも
無数の星の死した灯で、辺りは暗く、ぞっとするほど美しく、想像を絶するほどの絶望と
希望の振れ幅を知る人種なのだろう。それは判る。そんなことは判っている。買被りでは
ない。酷く憐れな、痛ましい話だ。
――初めてナカと話した時ね。
――ちゃんとした
家庭
(
うち
)
で、ちゃんと育てられた子だなって思ったんだ。
まだ何も知らずにいた、幸福だった夏の初め、七夕飲みなどと云っては決して少なくない
サークルの面子で飲んだくれていた時のことだ。宮沢の代と入れ替りに卒業していった
月島と云う人が、偶然隣に腰掛けたかれにひとつ話をしてくれた。吊上がりぎみの
眦
(
まなじり
)
の、
少しきつめの奇麗な人だったことを憶えている。石川は
白地
(
あからさま
)
に退いていたが、谷崎などは
性懲りもなく、美しいなどと言って絶賛していた。どちらの気持ちも、何となく判るような
気はした。決して悪い印象は抱かなかったし、さぞ男どもに騒がれたろうと踏んでいた
のだが。
ナカじゃん、久しぶり――。笑顔で手を振る月島を見留めて、中原は迚も、困ったような
顔をした。それから矢張り困ったように笑って、ご無沙汰です、と頭を下げた。人見知りの
概念自体を理解しているかどうか怪しいかれのことだ。出合い頭から闊達に喋り出す光景を
想像していたから面食らった。余程間の抜けた顔をしていたのだろう、その人は振向いて
また笑った。そっか、一年生くんは、知らないよなあ――。
「昔さあ、あたしナカに告ってふられたんだよね」
「え、」
杏露酒ロックで――と、通りがかりの黒い前掛に一声投げて、月島は空になった
麦酒
(
ビール
)
の
コップをひょいと
卓子
(
テーブル
)
の脇に除けた。ああすみません、と慌てて代ろうとする宮沢に、
いいよいいよと気持ち良く笑う。少し癖のある短い髪は黒く、ほんのり赤い目の縁に良く
映えている。奇麗な人だ。
先刻
(
さっき
)
の一幕を見るだに、月島の言葉に嘘はないのだろうが、普通
何かが起こったとして逆だろうと甚だ無礼なことを宮沢は朧り考えている。つき合いを
続けるにつれ、中原と云う男の奇態な
為人
(
ひととなり
)
は身に沁みて解ってきた気はするが、それに
しても一見、かれは決して人目を惹く方ではない。
身態
(
みなり
)
も至って普通だし、いつも何やら
眠そうな顔で変なもの――家庭の医学とか――を読んでいる。太いのか細いのか高いのか
低いのか、何度聞いても一向に判然としない声で、特徴と云ったらそれくらいだろうか。
迚もこんな美人を袖にする類の人間ではない筈だ。
「何、その顔は」
思い出すからやめてよね――、冗談めかして月島は言い、放り出してあったヴァージニア
スリムに火を点けた。すらりと華奢な紙巻きは、神経質そうな薄紅色の爪に良く映える。
「ナカもそんな顔してたなあ。何の話か判んないって顔」
酷いよねえ人の告白をさあ――。吐出された煙は苦い笑いを含んで、年月に煮染められた
艶艶の梁や柱に染込んで行く。果たして何と答えたものか。黙り込む宮沢に月島は細い頸を
竦めて誰も居ない向かいの席に眼を遣った。最初から空いていた、薄暗い席だ。
「もうほんとに、こっちが可哀想ンなるぐらい、途方に暮れた顔すんの。悪かったわよっ
て、謝りそうになっちゃったッての」
謔
(
おど
)
けたように眼を見開いて、肩を竦めた月島は
爽然
(
さっぱり
)
と笑った。新歓飲みで冗談のように
意気投合して以来、中原とは何かと行動を共にしてきたが――愕然とした表情も、途方に
暮れた
眼眸
(
まなざし
)
も、それが心からのものとなると想像もつかないことに気が付いた。そう云えば
あの人はからは、どこに居て何をしていても、画面の中を覗くようにまるで熱を感じない。
人並みに笑ったり怒ったり喚いたりして、組んず解れつ並んで歩いているのにその不揃いな
温もりがない。指に馴染む歪さは、一度熔けたものが冷え固まった後に似ていた。かれの
愛する鉄の塊に似ていた。
「それ見てねえ、あたし間違ったかもって思ったのだわ」
ちゃんとした家庭で――。
ちゃんと育てられた子だなって思ったのに――。
橙色の灯の下、
色差
(
コントラスト
)
の強い横顔で、月島は一度言葉を切った。乾いた口唇を湿す、舌が
血のように赫い。
「誰に、どこから突落とされたら、あんな顔するようになるんだろうって、」
眼を開けた。
いつの間にか眠っていたらしかった。ぐたりと力を失った
消炭色
(
チャコール
)
の夜具が足許にとぐろを
巻いている。既に陽は落ちて久しく、迂闊にも開け放たれた窓のお陰で文句のつけようが
ないほどに寒い。肩が震えた。
寒、と口に出そうとして、ここには誰もいないのだと気付く。自分ひとりだけなら、
態態
(
わざわざ
)
口に出さなくとも、寒いかどうかくらい解っている。厭と言うほど善く、解っている。
窓帷
(
カーテン
)
を引いた。耳障りな音がした。限りなく闇に近い紺碧の空に、死にゆく光は今日も
皓皓と沢山の眼を凝らしている。
不意に掻き消えてしまったあの人は――ちょうどこんな気持ちなのかも知れないと思った。
いつも、本当はひとりきりなら。
態態口に出すことも――。
「……
天象儀
(
プラネタリウム
)
、だ」
唐突に口を吐いて出た。呟きは掠れ、矢張り酷く乾いていた。
天象儀を作ろう。
莫迦げて立派な
模型
(
レプリカ
)
を。
無数の星の死した光を。
あの人の、菊名の世界にあって、おれだけにないまっさおな世界を。
そして壮大な模様替え計画が
開幕
(
スタート
)
した。
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「閃いてからは早かった」
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