六畳一間の安普請のアパートで酔い潰れている中原を、起こさない程度に蹴飛ばして、 今にも崩れ落ちそうな手すりのついた窓辺に行く。開け放した窓の前で、ポケットに突っ 込んでいた煙草と取り出した。一本取り出すときに、ひしゃげたパッケージに巻かれた セロファンがカサカサと音を立てた。百円ライターで火をつける。意に反して百円ライ ターなど使っているのは、そこで転がっている張本人が人のジッポで散々遊んだ挙句、 あっさりと失くしたからだ。
 深く、吸い込んだ。
 煙草を水はじめたのは中学のころだった。きっかけは見栄だったと思う。第一、本当 に必要に迫られて煙草を覚えるやつなんていないだろう。吸いはじめた理由なんてきっ と皆似たようなものだ。

 メンソールの匂いが鼻につく。
 眉間にかすかに皺が寄る。
 あの頃に出会ったヤツの顔が浮かんだ。


 目立つわけではないけれど、やけに小奇麗な顔をして、市川はいつもにこにこと笑って いた。造作自体は整っているわけではなかったから、造作ならば俺の方がよほど整ってい ると思っていた。けれど、市川の顔には人に綺麗だな、と思わせる何かがあった。清涼で 清潔な印象を与える何かを。俺の顔はどうやら人に酷薄さと威圧感の与えるだけの顔らしい。

 当時から小器用だった俺は、教師の前では完璧に優等生を演じて、一歩外に出たらどれ だけ校則を破るかに命を賭けているようなガキだった。市川は酷く八方美人体質で、俺と は逆に、いつだって、誰に対してもニコニコ笑って人畜無害な、優等生然とした態度を崩 さなかった。今でこそ、周りの人間全てに同じ印象を抱かせることなど恐ろしく高度なテ クニックだと知っている。だが、当時の俺は莫迦だったので、ただただ市川の人の良さそ うな笑顔が大嫌いだった。
 あれは確か中学の卒業間際だったと思う。美術か何かの課題でクラスの大部分が居残りを させられていた。俺は適当に終わらせてとっとと帰ろうとしていた。適当に課題を仕上げ、 適当に教科書を放りこんだ鞄を持って教室を出た俺は、絵筆を洗いにきた市川と鉢合わせ した。俺は挨拶もせずに通り過ぎようとした。けれど、市川がそうさせなかった。彼は 変声期の最中の掠れた声で囁くように言った。

「お前はズルイ奴だよね。俺は卑怯だけど」

 あの時の市川の首の角度や額にかかっていた髪の感じ、上履きの汚れ具合まで鮮明に 覚えている。
 反駁の言葉は、重量のない笑顔に奪われた。

 高校を選びにろくな選択の余地のない田舎で、俺達は同じ高校に行った。俺は市川に 近づいた。市川ははじめ少し戸惑いながら、やがてにやりと笑って俺を受け入れた。い つも隣にいた。けれど、高校を卒業したとき、俺の隣には市川はいなかった。もう何処 にもいない。


 風向きが変わった。
 紫煙がゆるゆると流れて、目を霞める。滲んだ視界で、転がった男を見る。
 身体を丸めるようにして寝ている中原はかすかに眉を顰めている。人の大事なものを 失くして笑顔一つで追求をやめさせて、人の中にいるくせに誰よりも枷がない。自分の 核心など一つも掴ませない。

 けれど、きっと眼前の男はそれが特別なことだなんて夢にも思ってない。彼にとっては 当り前のことなのだ。

「アンタも卑怯なんだよ」

 かつて笑顔一つで反駁を奪った彼のように。

 短くなった煙草を手すりに押し付ける。耳障りな音がした。風が焼け焦げた匂いを運ぶ。

「谷崎、窓閉めろ。俺が寒い」

 畳に転がった中原がもぞもぞと動いて、呻いた。俺は無視して、開け放した窓に寄り かかったまま中原を一瞥した。新しい煙草を手にとる。

「日本語わかんねぇのか。寒いんだよ」

 言うにこと欠いてそんな暴言を吐いた中原を見ながら火をつけた。一旦、口から煙草を離す。

「文語で喋れ、」

 返って来たは曖昧で乱暴な言葉だった。
 酔っ払ったまま感情をさらけ出す中原が珍しくて、俺は窓を開けたままゆっくりと煙草を吸い続けた。





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© あさき
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