世界が酷く遠かった。

全ての出来事は、薄靄の向こう。

着慣れた制服で、そこに立っていることが不思議だった。行き交う人々もクラスで
馴染みのある連中ばかりで、どうしてここに市川がいないのか、分からなかった。
「どうして、」
ぽつり、と言葉を漏らした。
その声を聞きつけたのか直ぐ傍にいた生徒が赤い目をして、水っぽくなった声で告
げた。
「市川が、お前のことを」
その先は聞きたくなかった。肩にかけられそうになった手を振り解く。
遠くにある写真の中の顔は、誰か知らない者のようだった。

――市川が、お前のことを。
他の誰かからそんなことを聞かされても意味はない。
市川の口から聞かなくては意味がない。

どうしてこんな。
どうしてこんな風に目の前から、消えた。
理不尽な、やり場のない怒りが悲しみとない交ぜとなって身体の裡で轟々と鳴った。


轟々と音が鳴る。
目をゆっくりと開けた。
安普請なアパートの窓が鳴っている。
「この音のせいか、」
暗闇の中で瞳を開けて、細く長くため息をついた。
起きあがり、立てた膝の上にほおづえを突いた。
「どうして、今頃」
嘘だ。理由など明瞭だ。突然消えたあの男はこんな風の中に、何処に行った。何を
している。
どうして、いなくなった。

声がする。
市川が、お前のことを。
そんなことになんの意味もない。
市川の口から聞かなくちゃなんの意味もない。
だから、どうして、あんたは何も言わずにいなくなった。

鳴る音が、一際、大きくなる。

畳の上に転がした携帯に手を伸ばした。
ダイヤルを押す。
何度目かのコール。諦めた頃に、眠そうな、不機嫌そうな声が転がった。
「なぁに」
「静」
呼びかける言葉に、静はぴしゃりと声を叩きつける。
「こんな夜中にかけてこないで。肌が荒れるわ」
「ごめん、切る」
珍しく歯切れ悪く謝った声に、電話の向こうでひゅっと小さく息を呑む声がした。
「どうしたの? 中原先輩が心配なの?」
「夢を見たんだ、…市川の」
静が、先ほど谷崎がしたように細く長く息を吐いた。
「そう」
永遠に続くかと思った沈黙は、風の音を遮るように唐突に終わった。
「大丈夫よ。中原先輩は帰ってくるわ」
根拠もなく、強く言う言葉に思わず言葉を返した。
「どうして、」
「私が決めたの。だから絶対よ、」
冷えていた指先が、急にぬくもった気がした。谷崎はゆっくりと呼吸を整える。
「それにね、」
声が届く。風の間を縫って、風を越えて。

「私は貴方の前から消えたりしないわ。それも決めたの」

凛と言う声に、谷崎は、初めて口元を緩めた。
そして、酷く掠れた声で、一言だけ伝えた。

「ありがとう」





「靄」
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© あさき

img:Sky Ruins


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