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「Door」
首都の名の付いた大学に来たからには、意地でもその地に棲んでやると云う無駄な
自尊心
(
プライド
)
と心意気から、急行を捕まえられて三十五分と云う距離を甘んじて受容れている。ちっぽけ
でも自らの主義主張の為に、だ。決してこんな暴戻なモノの急襲に備えたわけではない。
決して。
「…無茶苦茶だな、相変わらず。あんたと云う男は」
ため息を吐き、谷崎は既に覚束ない足取りでこんな夜更けに玄関の扉を
敲
(
たた
)
いた不躾な輩の
斜向かいに腰を降ろした。年の瀬の押迫った頃から行方を
晦
(
くら
)
ませていた筈の男は、姿を消す
前と寸分変わらぬ顔でへらへらと笑いそれに応じた。暖簾に腕押し、糠に釘――埒もない
諺が脳裏を過ぎる。そう云えば
これ
(
、、
)
が酔っているところなど久し振りに見た。それを云う
なら顔を見ること自体、久方振りではあるのだが。
――やるきで呑んでたら帰れんなった。
つい先日も顔を合わせたかのような軽い口振りで、消えた男は唐突に、再び谷崎の前に
立った。それ程頻繁に顔を合わせていたわけではないかれが、男の失踪に伴い味わったあの
懐かしくもない子供じみた感傷を、当の男が思い知る日など恐らくは来るまい。
この手
(
、、、
)
の
男は俺の眼の前から居なくなることを義務付けられてでもいるのかと――莫迦莫迦しいほど
果敢無い思いに駆られたのは昨日今日の話ではない。
この蓋見てみ、栓抜き必要やと思うやろ――。
柑橘系の強い香りを放つ玩具のような
酒精
(
アルコール
)
擬
(
もど
)
きを、酷い
罠
(
トラップ
)
だと笑いながらかれは谷崎に
勧めた。疑いようもなくいつも中心に居た盛り上げ役を欠き、何とはなし気勢を殺がれた
形の悪友どもは皆すごすごと妙に倹しい日日を過ごしていて、このところめっきり羽目を
外すこともなかった谷崎はその甘そうな液体に強く惹かれたが、元兇は今目の前にいる
この男なのだと思い直して素気なく辞した。おもんないなあ、あっさりと言い放ち、男は
そのアルミ製の蓋を開け注ぎ口に咬みついた。時時酷く乱暴になる。
隙間風の所為かやけにざらついた畳が、
跣
(
はだし
)
の土踏まずにさえ何処となく不快だ。最前
交した短い会話にまたひとつ大事なものを
蹂躙
(
ふみにじ
)
られた。
蒐集
(
コレクション
)
の趣味は特にないが、あの
ジッポは割と気に入りの品だったのに、それをポケットに忍ばせたまま居なくなった男は
帰って来るなり失くしたと言う。何故か怒る気も失せた。谷崎、ごめん、あのジッポなくし
てしもた――。深夜立付けの悪い戸の前で、おとないの言葉を脇に除けてまで開口一番
言う科白ではない。
「俺が戸を敲く音にも気付かないほど、爆睡してたらどうする気だったんです」
「せやなあ、蹴破る?」
「宿無しの分際で。何様だ」
「先輩様や」
何ひとつ解っていない癖に、見透かしたようににやりと笑う。誰かに迚も善く似ている。
あまりにも懐かしすぎる顔の所為で、誰を思い出したのかも思い出せなかった。意図しない
部分まで悪質な男だ。
――
仮令
(
たとえ
)
似ていたとしてもだ。
この男はかつて谷崎を呼び止めたあの日の少年よりも遥かに老獪だ。
一寸先を見据えぬことの平穏と価値を知る男だ。
ぼとりと厭な音がした。空になった壜が倒されたのだ。
「まあ、そう膨れんな。酒持って来たったやんか」
「俺はこんな甘ッ
怠
(
たる
)
い酒は飲まないんですよ。結局飲んでるのはあんただけじゃねえか」
「ほな何か買うて来いや」
「阿呆か!」
肚
(
はら
)
に据え兼ねたふりをして、寝ろ酔っ払い、と吐捨てる。男はまるでいつものように、
げらげらとおそろしく自然な軽薄さで笑った。頭が悪く見えるだろうがと舌打ちしそうに
なる。芯から悪質な男だ。
「――どこに行ってたんです。訊いてもどうせ答えやしないんだろうが、」
「周参見」
あてつけがましく尋ねる真似をしただけなのに、すとんと手放された答えにいっそぎょっ
とした。周参見。南紀伊か。どうしてそんな、さびしいところに、
「……また物騒な」
「物騒? 補陀洛か、」
安直なイメージや――。抑えた声で男は笑った。慥かに耳にした言葉は咄嗟には飲込めぬ
ほど捩れ、尖ったものに響いた。冷笑を浴びた頬がくうと引攣る。一刹那、ほんのひと息
二の句が告げぬ。
「何だよ――今日は随分黒いな」
「人間誰しも生き疲れる時はある!」
呂律の回らなくなった言葉で、矢張り酷く容赦なく男は笑った。甲高い笑い声を初めて
耳障りなものに感じた。そう、初めてだ。谷崎のような、気難しい男をして。
ひしゃげたような笑い顔だ。
そんなところが善く似ていた。
いきなり立ち上がった。煙草が喫いたい。ただ沈黙を吸って吐いて、背中を向けている
のも飽きた。
もう沢山だ。
この男はあのときのかれとは違うのに。
「おまえも大概我慢強いな」
あろうことか急に
確乎
(
しっか
)
りした口調で、真っ暗な淵のような眼が不意に呟いた。
それ見たことかと、誰にともなく思う。これが莫迦にできる
貌
(
かお
)
なものか。生半なことで、
編める優しい声なものか。
「おれも諦め悪いけどな」
「…それは<も>じゃない。あんた本気で最低だぞ」
引きちぎるように片手で煙草の包みを捩開けながら、ありったけ罵ってやったのに三度
餓鬼のように笑われただけだった。屈託のない謝罪に口許が歪む。
解っている。最低な男にだって、本当はなってみたかった。
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え、えーと、ギリギリセーフ…?
img:
塵箱[not found]
♪
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