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夏が、終わろうとしている。
@
うんざりする気力もなく淡淡と電話を切った。幼い頃には毅然として見えた母親も、
最近は齢の所為かめっきりべたべたと湿っぽい言葉を並べるようになった気がする。我武
者羅に働いて働いて、人並みに顔を合わせることもしなかった子どもらが、いつの間にか
毎朝髭を剃る齢になっていることにもきちんとは気付いていない様子だ。構われるのに不
慣れな所為もあり、何処となく気色が
慝
(
わる
)
い。北原颯吉は長男だ。姉と双児の弟が居る。
弟は利助と云う、兄に優るとも劣らぬ悪趣味な名前を理由にどうしたものか両親を慕って
いた。素直な性格なのだろう。地方公務員の稼ぎなど高が知れていると云うのに、三人の
子を概ね無事に育て上げたかれらに、北原自身も充分過ぎるほど感謝している。好きに
なれるかどうかは、また別の話だったと云うだけだ。
北原家の三人の子は、幼い頃から近所でも評判の才媛だった母に善く似た顔をしていた。
分けても下の双児は殆ど瓜二つと云って善いほどで、
確
(
しっか
)
りと二重の刻まれた、なみなみと
大きな母の眸は、割れた鏡を見ているような歯痒さを北原に与えた。弟が平然として居
られると云うのが、本当に信じ難かった。
颯も
利い
(
、、
)
もお母さん似だから、
屹度
(
きっと
)
利口な子になるねえ、と――繰返し繰返し聞かされた
祖母の言葉を、北原は忘れた事がない。
昔から、要領は善かった。
楽を出来るかどうかは、また別の話だったと云うだけだ。
八月も半ばを過ぎ、
薄暮刻
(
ゆうぐれどき
)
には
茅蜩
(
ひぐらし
)
の同情を誘う啜泣きも聴けるようになった。猫も杓子も
里帰りだねえと、がらんとした食堂に小さく欠伸を落とす。何処の御家庭も円満で結構な事だ。
若干一命ほど、帰省は
疎
(
おろ
)
か満足に身内と連絡も取っていなそうな人物に心当たりがあったが、
かの人がみすみす、与えられた長期の公休を狭い自室で費やしているとは到底思えなかった。
居れば居たで、何かに憑かれたように工具や金属片と向かい合っているに違いない。どちら
にしろ遊び相手にはなって貰えそうになかった。もう一人の心当たりは愛犬を練馬の実家に
御披露目に行ってしまったきりだ。購買部の小母さん連中も、夏休みの学校には流石に顔を
見せない。そう云えば、と千葉に生家のある某有名人の先輩の顔を一瞬思い浮かべたが、
北原が声をかけるといつも微妙な顔をするあの人と差向かいで遊んでも、余り有意義な気は
しなかった。第一あんな痩せぎすの躰で陽の下を歩かせて、倒れられてもそれはそれで
困る。下手をしたら三面記事を飾り兼ねない。宮沢謙司、熱中症で倒れる――だ。冗談じゃ
ありませんと少し笑えたけれど。
――暇っす。
窓際の、いつもは座れない席にぽつんと腰を降ろしてみる。途端に、
先刻
(
さっき
)
の電話の声が
脳裏を過る。
帰って来いと云う母の言葉を、最後までそれとなく封じることが出来た。口に出されて
しまったら、北原には唱えるべき異論が用意出来ない。相手は非の打ち所のない母であり
教師だ。嫌う理由も見つからなかった。ただ恐らくは、好きになれなかった。
また電話するから、そう言って母は無理に明るい声を作った。無茶苦茶な生活してる
から、俺からかけるよ――と、莫迦げて明るく言い放ったかれの密やかな抵抗を、どうやら
敵は見抜いている。
やり
悪
(
にく
)
いな。そう思った。物心ついた頃から漠然と、その居心地の悪さは北原を捕えて
放さない。
午睡
(
ひるね
)
でもしようか。
朧
(
ぼんや
)
りと思う。それは迚も下らない、素晴らしい思いつきであるように
思えた。無駄な事は大好きだ。酷く落着かない気持ちになる部分も含めて。
眼を閉じて、だらりと伸ばした腕の間に顔を伏せる。
空調
(
エアコン
)
の効き過ぎた食堂に、陽差しの注ぐ熱が今は心地良い。
うとうと、うとうとと――。
細い声がした。
小さな軋りのような弱弱しいその音は、殆ど人影のない中庭の不揃いな植込みの葉音に
さえ今にも飲込まれてしまいそうで、碌に悲嘆にも暮れられぬ北原の
仄
(
うっす
)
らとかさつく奥の
方の何かを飽くまで控え目に
翳
(
かす
)
めて行く。肩を掴んで揺さぶられるより余程不快だ。いつも
何処となく物憂げな眉をこの時ばかりは
瞭
(
はっき
)
りと
顰
(
しか
)
め、少年は窓に額をつけるようにして
外を見た。
まだ声はしている。
憤
(
むずか
)
るような声だ。
「…猫か」
声の出所を突止め、ぽつりと呟いた。なあんだ、と
謔
(
おど
)
けた声を繋げてみる。窓の外の
容赦ない暑さに、耐兼ねたらしい小さな猫が
窓枠
(
サッシ
)
の狭い足場に器用に収まってぴいぴいと
鳴いていた。どうやら人の姿を目に留め、中に入れろと
請願
(
せが
)
んでいるらしい。
「入れてなんか遣らんよ」
くつくつと笑う。迚も可笑しい。
俺なんか
正面
(
まとも
)
に相手にして。迚も、可笑しい。
窓の外に眼を遣ると、白茶けた石畳に濃い影が落ちていた。暑そうだなと手遊みに思う。
その内鳴く元気も失くして、いい加減洒落にならなくなったら拾ってやるかと今決めた。
小さくとも野良は逞しい。そうなる前に別の当てを探すだろう。
ちいちいと、
栗鼠
(
りす
)
か何かのような細い声の懇願は続いている。北原は元通り眼を閉じて、
固い
卓子
(
テーブル
)
にぺたりと額をつける。
どれくらいそうして居ただろうか。
急
制動機
(
ブレーキ
)
の音がした。
文字通り撥ね起きた。気付いた時にはサークル会館の先、今は封鎖された裏木戸――通称
開かずの門――を乗越えて、細い割に車通りの激しい道に飛出していた。不思議なことに、
桟に捻登るのもやっとと云った有様だったあの猫が、真逆な――と云う思いは微塵もなかっ
た。悪い予感は、何も北原のそれに限らず善く中る。白線の丁度上辺りで見るも無残な
亡骸を晒している、つい今し方まで動いていた生きものの姿に、少年は手を膝に突き、息を
切らしながら徒眼を凝らした。
はあはあと間近に呼吸の音が喧しい。叩きつけられた陽差に、全身から刺すような汗が
どっと吹出した。
――矢っ張り。
暑いな暑いじゃないか、何かを罵るように胸中に繰返す。八当たりだ。莫迦莫迦しい。
顔を上げると、何事もなかったかのように流れ始めた車の向こう――見るからに老耄れた
小さな生花店の、店先から駆出そうとする姿勢のまま立尽す少女の姿が眼についた。造り
かけらしい花束の残骸が、あちこち縺れた埃っぽいスニーカーの足許に散らばっている。
行交う車の捲起こす
微温
(
なまぬる
)
い風に、落ちた花びらと眉の辺りで揃えた髪が
戦
(
そよ
)
いでいる。
硝子戸に添えた手が、力無く滑り落ちた。
弓張月の、決して大きくはない黒い眸から、大粒の涙が零れて落ちた。
為す術もなく眼を凝らした。忘れるわけには行かないのだと、何故か強く思った。
懺悔をさせられているようだ。
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しばし御静聴願えましょうか。
続くのです。
img:
七ツ森
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