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A
焦焦と
警鐘
(
サイレン
)
のように谺する蝉時雨を、束の間
撓垂
(
しなだ
)
れた翔ばぬ鳥に似て煮切らぬ
黒の
眼眸
(
まなざし
)
で掻分ける。誰も手繰らなくなって久しい食堂の入口の大層
前時代的
(
レトロ
)
な
日捲りの、表ばかりがやけにつるりと手触り好いのを毟り取るようにして今日の
日に合わせる。立込める真夏日の
余熱
(
なごり
)
は自身とそれ以外とを隔てる透明な
漿膜
(
レンズ
)
を
白く濁した。ああ、窓が曇る。
少しだけ落着かぬ気持ちになった。咽骨の辿れそうに痩せた首を亀の子のように
伸ばし、天井近くの突揚窓を
凝眸
(
みつめ
)
る、刮貫いたような檸檬型の二つの眼には、それでも
然したる色は
罔
(
な
)
い。押殺す事、流す事には生まれつき長けている。北原颯吉は
優等生だ。殆ど
凡百
(
あらゆ
)
る意味に於て。
例えば出来は良いのに不器用な兄と、どれもそこそこだが要領だけは良い弟、
そんな善くある話だったなら北原の北原個人としての半生はもう少し安寧なものに
なったろう。残念なことに、本当に残念なことに、どの
局面
(
ジャンル
)
に於ても<北原兄>は抜かり
なかったのである。程程の努力で
及第点
(
ノルマ
)
を
獲得
(
クリア
)
して猶、愛嬌を振撒く事も本当に
容易かった。必要に駆られぬ難題は、時に
出来ん
(
、、、
)
と喚いて匙も投げた。それなり
付き合い馬鹿
(
、、、、、、
)
も
熟
(
こな
)
した。引際だけは読み違えた事がない。適度に短所も兼備えた、
厭味な程に人間味ある日向者の道を、何故だか歩むことが出来てしまった。
自惚れでなく沢山の人間が、<北原兄>を慕い集まった。かれを妬み嫉む者は
負け組
(
、、、
)
の
名札
(
レッテル
)
を貼られ、
挙って居場所を奪われるのが精精だった。熱した錐に掻毟ら
れるような思いを知らずに済んだ代りに、膝から地面に倒れ伏すような、色鮮やかな
安堵を手にした事も無かった。
漠然とした不安は、奇妙な安定感をかれに齎した。
そうして居るのは窮屈だけれど本当に楽だったのだ。
いつかTVで観た、
有舵雪橇
(
ボブスレー
)
の選手を不意に思い出した。
碌寸法
(
ろくすっぽ
)
身動ぎも出来ぬほど、
狭い車体に押込められて、
操舵
(
ハンドル
)
を切ればどうとでもなる装甲の薄い
駆動
(
マシン
)
で二百
粁米
(
キロ
)
近い
猛
速力
(
スピード
)
に身を委ねる。調整に遊びなど必要ない。万力か何かで締付けられたように、
血流と云う血流が滞り、痺れが来るほど圧迫されるが、迚も、安心するのだと云う。
命を護る仕組みだという。縛りだという。
※黒落ちから
露出
(
カットイン
)
※
境界線氷解
(
デフォーカス・ミックス
)
仄蒙
(
うすぐら
)
い朝の空は闇色ですら無いのだ。雲一つない灰白色の空を横目に
搨
(
なぞ
)
りながら
身を起こした。漠然と疲れている。貪るように夜を眠っても。
階下の台所では、限られた時間を懸命に
継接
(
やりくり
)
して忙しく立働く母親の気配がする。
住慣れた外れの町から電車で一時間近く離れた越境の進学校――言うまでもなく
公立だ――に通うと言い出したのは長男の方で、そのことで徒でさえ多忙を窮める
母に負担を懸けまいと固辞したのだが、絵に描いたような自慢の息子を手ぶらで
余所の学区に送り出すことなどかの女の
矜持
(
プライド
)
が赦さぬらしかった。苦心の痕が
在在
(
ありあり
)
と伺える昼食を、毎朝律義に手渡される。努めて何も思わぬようにしている。
淡淡と身支度を整え、製氷皿から刳出したような言葉をひとつ残してポケットの
鍵を探る。長針が次の数字を指す時のような手応えを少年に射掛けて、見慣れた扉の
鍵は閉まる。外側だけ綺麗に手入れされた植込みの向こうを隣人が犬を連れ横切る。
お早う颯君、毎朝早く偉いのねェ――。
行ってきますと歪んだ口許に気を遣りながら笑う。エエ行ってらっしゃい――と、
優しげな声が背中を押した。週日決まったように此処で会うあの御婦人が、何処に
住んでいるのかも少年には判らぬ。
判で捺したように同じ道を辿り、改札を潜って人気の無い
車站
(
ホーム
)
に立つ。真直ぐに
伸びた薄い影が何処となく忌まわしい。
古惚けた車窓を
茫漠
(
ぼんやり
)
と眺めた。何処にでもありそうな田舎の鄙びた風景だ。うつら
うつらしていると携帯が制服のポケットで振動した。見れば今頃目を醒ましたらしい、
市内の商業高校に通う弟からの、実に下らぬ
与太
(
メール
)
だった。
――また朝飯食う時間ねえし。
――何でお前起きれんの? 分けてよ。
阿呆か、と、声に出して呟きながらその場で削除した。目を開けたその瞬間に、
訳も判らずもう厭だ――と思う瞬間など幾らでもある。ただ本当に無理な事など
そうは無いのだと、いつしか身に沁みてしまっているだけだ。
死ぬ程の悲しみなどかれの住む世界には無い。
咽の奥をにぶく
悸
(
ふる
)
わせ、小さく笑った。込上げてきたその笑いの意味など知り
たくもない。少年は鞄の中に忍ばせた、擦切れて
襤褸襤褸
(
ぼろぼろ
)
になった
図誌
(
ムック
)
を取出した。
これには夢が詰まっているのだ。この中にだけは、生きた夢が。
※白明け
下らない夢を視た。
夏の陽のすっかり傾いた、薄暗い食堂で北原は
鈍鈍
(
のろのろ
)
と身を起こす。下敷きにして
いた腕は痺れて、殆ど感覚を失くしてしまっている。
莫迦な餓鬼だ。今ここにこうして、まるで悠悠自適の生活を送るこの自分とは、
まるで繋がらぬ十六歳の少年の姿を音も無く冷笑に付した。自業自得も善い処だ。
あんなものを悲劇とは、悲しい過去とは呼べまい。
浄瑠璃人形のようだと谷崎――その喩えからして鳥肌が立つ――に評された、
ぎこちない動きで頸を左右に傾げ筋を伸ばす。折角の夏休みに、あんな黴の生えた
感傷など無用の長物だ。一人で暇を持余していると碌な事がない。暇潰しに、
そうだあの、見ず知らずの子猫が死んだ程度で泣いていた、可哀想なほど心根の
優しい――推定――花屋の娘さんでも眺めに行ってみようか。
本当にそんな、軽い気持ちで席を立ったのだ。後にして思えば随分な話だ。
それこそ自業自得と云うのかも知れない。
あんな所に花屋があったのかと、いっそ意外に思った。気になり出せば自然
眼にもつくもので、三日と経たぬうちにかの女に関する益体もない情報だけは
かなり集まっていた。夏休み中と雖も、日がな一日サークル席で惚けっとして
いれば暇な女子の五六人には顔を合わせる。北原は滅法、一部の女子に囲まれ
易い
質
(
たち
)
だし、またそう云うものほどこの手の話題には詳しい。
件の生花店は<フラワーショップ・ノモト>と云って――そんなことすら開かずの
門愛用者北原にも初耳だ――善く言えば老舗、有体に言えば何故保っているのか
判らない一種の
都市伝説的
(
、、、、、
)
な存在であるらしかった。善く潰れないよね、と、
とある女子は北原に炭酸飲料を奢ってくれながら笑った。かれがいつも通りある種
痙攣的な動作で笑い返すと、それが可笑しいと云って大概の女子は更に笑うのだが、
それはまた別の話だ。
ともあれあの心優しい――推定――花屋の君は、近隣の割合大きな寺家のひとり
娘で、生家の仏花の仕入れ先に当るあの店をご近所付合い的に手伝っているのだ
そうだ。名を町屋
和已
(
かずき
)
と云う。敷地内に幼稚園もある、見るからに年季の入った
家に生まれたことへの、疑問やら不服やらは感じていないのだろうなと、教育学部
幼稚園課程専攻と云う言葉を耳にした北原は
朧
(
ぼんや
)
りと想像を巡らせたものだった。
羨しいと、少し思った。部室への近道を踏む度、視界の片隅を
翳
(
かす
)
める少女は、
碌に
購
(
か
)
いもしないだろうにただ店先に入浸る老婆や、卒園生らしき子どもら相手に
驚くほど屈託なく笑ったり怒ったり賑やかにしていて、その異常に――北原の眼から
見れば――
牧歌的
(
パストラル
)
な光景は、うっかり手に付けてしまった
塗料
(
ラッカー
)
のように、消えない
染みを残した。
熟熟
(
つらつら
)
と、虚実の曖昧な思考を張巡らせながら、黄色懸かった
木炭色
(
チャコール
)
の世界を悠り、
緩りと歩く。開かずの門に辿り着く前に、部室の前で島崎に出食わした。
「あ、――北原だ」
――微妙な顔しやがったな。
平素の
行状
(
おこない
)
を棚に上げ、内心むっとしながら笑ってやった。おう島崎君か、
今日も全身
陰性帯電子
(
マイナスイオン
)
だな――。
是が非でもあの優しい人――推定――のご尊顔を拝みに行きたかったと云う訳では
ない。手近に面白そうなものを見つけた北原は、速やかに
標的
(
ターゲット
)
を移行させた。この島崎も
類稀なる心の美しい男だ。そう云うものを玩具にするのはかれの
生活習慣病
(
ライフワーク
)
の一つ
である。結局宵の口から、部室に酒を持ち込んで屯ろすることになった。
五六時間はそれに費やしただろうか。
男二人固まってうだうだ飲み明かした――二人とも帰宅に自転車以上の足は必要
ない――帰り、裏通りを真直ぐ横切った少女がそれこそ猫のような身の熟しで、
開かずの門を乗越え学内に侵入するところを偶然目撃したりした。北原ら属する
廃線映画舎の隣の部室――児童何とか研究会――の住人らしいかの女は、小さく
欠伸をしながら色落ちしたカーゴのポケットから鍵を取出し、
把手
(
ノブ
)
の鍵穴に挿込む
段になって漸く北原の存在に気付いたらしかった。あ、と声に出さずに小さく
口を動かす。蕎麦滓の散った白い顔だ。化粧気のない口許に小さな黒子が一つある。
北原の顔にどうやら憶えがあるらしい。
「この前の――」
「猫」
可哀相だったな――と、
擦
(
なす
)
りつけるような一言で片付け薄笑いを浮かべて見せた。
見知った誰の眼も無いことに気が緩んだか、それとも矢張りそれなりに動揺して
いたのか――随分と取乱した記憶が強くある。灼けつく
土瀝青
(
アスファルト
)
に落ちた短く薄い
影。威嚇するような
囂
(
けたたま
)
しい蝉の声。あんな必死の形相は、泣き出しそうな空の青は、
慥かに北原の中にあって善いものだった。けれど誰にも、見せるべきものではない。
望むものなど何処にも居まい。
北原颯吉は抜かり無いのだ。殆ど凡ての場に於て。
齢の割には手練手管を身に着けているかれが、それなり悪辣に振舞えば大概の
人間は眉を顰めるはずだった。人を不快に陥れる術なら両手に余る程度は心得ている。
無論、その逆もだ。
案の定、傍らに立つ少女はまるで幼い顔を訝しげに曇らせた。これで目出度く、
なかったことになれるなと胸を撫で下ろしかけた北原に、赤い
背嚢
(
ランドセル
)
でも背負って
いそうな、仇気ない、金属質な声が答えた。
「何、その、作り笑い」
意味判ンねえし――。
いっそ戸惑いがちに切口上で言い放ち、少女は乱暴な動作で扉を開くとその奥の
梦
(
くらがり
)
に消えた。
同時に、殆ど信じ難い程の憤りがかれを襲った。
「…お前に言わる筋合いねえぞッ!」
ー
(
がん
)
。
力任せに扉を閉める。思ったより酷い音がして、中で伸びていた島崎ががばりと
飛起きるのが判った。何も言わず速足にその場を後にする。あんな大声を出した
のは――一体いつ振りだろう。どくどくと頸すじが脈打つのが判った。少し息が
乱れている。
何だ。あいつ。
失態だ。早足に夜明けの
校庭
(
グラウンド
)
を突切りながら歯噛みした。こんな屈辱は生まれて
この方味わった事がない。飛起きた島崎に
釈明
(
フォロー
)
を入れる余裕も無かった。日がな一日
口を開けば気に障る事しか言わぬ、弟の言葉も眉一つ動かさず
往
(
い
)
なせるようになって
久しいと云うのにだ。
眼に映るもの凡てを
打毀
(
ぶちこわ
)
したくなる衝動に駆られた。許し難い。赦し難かった。
何よりも自分自身をだ。
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本当に他意は無いです。
地雷踏みませんように。祈。
img:
塵箱
re;
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