「…(これ)が欲しいわけじゃなかったの」
「おれに言ってどうなんの。どうにかなんの」




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 四畳半の剥げた畳が朝から何故だか迚も耐え難くて、宮沢はその日壮大な部屋の模様
替え計画――の計画を立てた。日本語として怪訝(おか)しいことは解っていたが、具体的に何を
するかはまだ決めていないので、計画の計画段階と呼ぶのが逆に相応しいような気もした。
ともあれこの部屋をどうにかしなければ、干上がってしまう。本気で思った。実際
息苦しささえ感じた。錯覚だろうが何だろうが、苦しいものは仕方がない。
 昨夜、菊名が来た。宮沢が取立てて声を懸けたのでも、菊名から進んで来たわけでも
なかった。かれらはいつもそうだったし、これからも屹度(きっと)変わらない。
 磨減った畳にぺたりと身を落とした、菊名の(はだし)の足は夏だと云うのにただ白く、棒
切れか何かのように脆く、(とて)もきれいなそれを本当に折るのじゃないかと、気懸りで
ならなかった。
 昼間も月が見えたら善いのに――、菊名はそう言って、塗潰したような泥濘んだ
夜空に孔を開ける中途半端な月を見上げた。
 ――私が月ならそうするのに。
 そうすれば、続く言葉を、聞こえないように宮沢は北向きの古ぼけた窓を閉めた。
まるで覚束ぬ金切声を挙げ、にぶいアルミ色の窓枠(サッシ)はぴったりと四角い空を塞いだ。
どの道菊名は皆までなど、決して言ってはくれないし、(はっき)り口にされなかったところで、
この息の詰まりそうな疎外感が消えてなくなるわけでもなかった。
 宮沢の知る限り、菊名の視界からあの顔が消えたことはない。そばに居ても居なくても、
届いても、届かなくても。




「お、宮沢嫁」
 真冬のてのひらようにがさがさとした、だのに細い声で言って、中原は眼許を、くしゃ
くしゃにして笑った。闊達に誰とでも言葉を交すのに、決して立入ることを許さない
黒黒と艶やかな眼が糸になる。菊名と宮沢は、確かに合鍵を持歩くような関係だ。間違いは
ない、はずなのにかの女は、選んだその扉に居心地の悪さをおぼえる。
 中原は元通り、黄ばんだ紙の草臥れた頁に視線を戻す。かれはいつも何かしら読んでいて、
大抵それはひと昔ほど前の古い漫画だった。今日は<のらくろ>だ。
「…そう云うの、どこで見つけて来るんですか」
「珍しいな、菊名が他人のすることに興味示すとは」
 擦切れるほど繰返し読んだだろうその本を、卓子(テーブル)に叩きつけるように閉じて中原はまた
笑う。答えているようで、その実まるで会話になっていない。かれは大概人の話を聞かない。
そしてそれを、滅多に相手に悟らせぬ奇妙な話し方をする。論に理を畳み掛けるように
語る谷崎や、その場のテンションに身を任せて打撒(ぶちま)ける石川とは違う。他に行き場が
ないのだと云う顔をして、何だか苦しそうに喋る宮沢とも。
「…いけませんか」
「や」
 意外やっただけや、可笑(おか)しそうに言って中原は放り出してあったぼろぼろの携帯を掴むと
ポケットに捩込んだ。このご時世に、銀の塗装(メッキ)のすっかり剥げたその背にはIDOと誇らしげ
に書いてある。六年連添った相棒なのだと云う。疑いようもなく年代物(ポンコツ)のそれを、何故替え
ないのかは知らない。
「中原さんは、違うから」
「なんが?」
「他の人と」
「失敬な奴やな」
 変人言いたいんか――。三白眼で菊名の白い顔をじろりと睨めつけ、まあ自覚はある、
と勝手に自己完結して中原は席を立つ。裏表紙が()げて、奥付のむき出しになった漫画は
そこに残されたままだ。立去ろうとする背中に菊名は声を懸けた。必要もないのに。
「あの、」
「んー」
「本、…忘れてます」
「やる」
 今から探そいうほうが無理や。諦めきったような潔い声がいった。菊名はそうした、
目の前で重い戸を鎖されるような物言いが寂しくて好きだった。
 たった二つ。二年という、瞬きのような生きた時間の差。菊名の居る世界はいつでも
不可解で、殆ど信じ難いほどぶよぶよと不確かなものなのに、たったそれだけ長く生きた
この人は、どうして凡てを見てきたような、足りない言葉を遣うのだろう。
 何かが()ぜるような音を立てて、伏せられた本を手に取る。ざらざらと異物感のある、
いびつで優しい手触り。ささくれ立って痩せた、その癖屹度もう育たない、かれの声に
似ている。
 ――中原さん。
 ――世界は凄く広いんですよ。
 あなたの知らない事だって。何度もそう言おうと考えた。その度止めた理由は、そんな
ものは一つしかない。
 菊名と宮沢は、確かに合鍵を持歩くような関係だ。間違いはない、けれど。
 菊名はそうした、目の前で重い戸を鎖されるような物言いが、寂しくて寂しくて好きだった。






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どっちのファンにも石もて追われそうな。笑。
img:大阪ラブポップ
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