無題――珈琲。






あなたに会いたくなった。

本当に些細なことでも抗いがたい強さで感覚は蘇る。石川は英単語を綴っていた手を止めて両手を上に挙げて大きく伸びをした。


神様、
あなたに会いたくなった。


この短い文章を綴ったのは誰だったろう。記憶にある文字の羅列はとても静かで真摯で胸の奥が酷く痛んだのをよく覚えている。
その文字の羅列を石川は決して口に出せはしないのだけど、口のなかでで何度も何度する。
キャスター付きの椅子の上で大きく伸びをして、部屋をでた。階段を降りるときにもこもことした冬用のスリッパがぱたぱたと間抜けな音を立てた。
誰もいない台所の戸棚を開けて銀の蓋のついた瓶に入れた珈琲豆を取り出す。舗で挽いて貰った豆が砂時計の砂のように揺れた。

時間は戻りもしないし、止まる筈などない。

けれど、そんな理さえも無効化しようとした日々があった。

あの日から――去年の冬から最近までずっと石川は無理矢理に時間を止めようとした。止められるのだと思いこもうとした。
けれど、そんなことをしても、今、此処にいない彼にちっとも近づいた気がしなかった。そればかりか、どんどん距離が離れていく気がした。

とても寂しかった。辛かった。

コーヒーメーカーから細く珈琲が落とされる。狭い台所に珈琲の匂いが広がる。

中学の終わりくらいから珈琲に凝りだした彼は、石川とあやねを呼び出しては新しく手に入れたという豆で石川たちをもてなした。
けれど、苦いのが不得手な二人は彼の家の冷蔵庫を勝手に開けてはミルクを取り出して苦い苦いと文句を言いながらカフェオレにして飲んでいた。
そのたびに彼は心外そうな顔をして、まだまだだな、と言って柔らかく笑っていた。 そうやって選んでいた豆が悉くカフェオレ向きの物だったと知ったのは随分最近だ。彼がいなくなってからだ。

いつだってそんな風に人の事ばかり考えて。
いつだって俺は自分のことで手一杯で。少しだけ視界が滲んだ。部屋着のフリースの袖で目元をごしごしと拭った。ふうと長い溜息をついた。

本当は前に比べれば苦いのには慣れている。
けれど落としきった珈琲に沢山のミルクを入れた。思っていることとやっていることが我ながら矛盾していると思う。明らかに一人分を越えた珈琲を眺める。

「作り過ぎちゃったな、」
声に出して、言い訳をする。

もう一度目元を擦って、食器棚の奥からステンレス製の水筒を取り出した。冷たいミルクを入れたせいで温くなった珈琲をその中に注ぎ入れる。
自転車の鍵と水筒を抱えて外にでた。

頬に夜気が当たる。
冷たい、風だ。

涙の跡がひりひりと痛む。
手の甲で頬を強く擦って、強く自転車を漕ぎだした。

夜の街は誰も返事をしてくれなくて静かだ。
大声を上げたい衝動を飲み込んで、ただ走った。


カーテンから零れる柔らかな光に、ほっと息をつく。こんこんと窓硝子を叩くと不審そうな顔が覗いた。
ちょっとだけばつの悪い思いをしながら水筒を掲げ挙げた。
「どうしたの? はじめちゃん」
気遣わしげな声が何処かくすぐったくて、あやねから少しだけ視線をそらした。
「作り過ぎちゃって、」
小さな笑い声が響く。
「普通、そう言うこと女の子が言うんじゃないの?」
「どうでもいいじゃん、」
酷く投げやりに言うと、窓が大きく開いた。
「入れば?」
「ここから? いいよ」
石川の返事にあやねは少しだけ眉根を寄せると一旦部屋の中に消えた。直ぐに戻ってきたあやねは石川の目の前に白いマグカップを差し出した。
「これに頂戴」
言われた通りにマグカップになみなみと注いだ。あやねが小さな両手でそれを包んで口元に持っていたのを見て石川も水筒のコップに珈琲を注いだ。
「これぬるいよ」
あやねが言った。返事をする前に、彼女は言葉を足した。
「苦いね、」
嘘だ。
あんなにミルクを入れたのに苦い筈はない。
けれど、石川は言った。
「まだまだだな、」
泣きたくなるくらいの沈黙が降りた。

布団をかぶって、学校にもいかないで、泣いて、無理矢理に時間を止めようとした。世界が石川の感傷など無視して進んでいくことすら見ないようにしていた。
けれど、そんなことばかりもしていられなくて、外に出て、それでも何も感じようとせず死んだふりばかりしていた。
けれど、気付いてしまった。
どんなに寒い冬の日でも、どんなに暗い朝でも、微かでも、弱くても、光が射すことを。

笑われてしまう。

唐突に思った。

伊藤に、笑われてしまう。

だから歩き出そうと思ったのだ。
立ち止まっているだけでは彼に置いて行かれる一方だから。

けれど、それさえも生きていくための方便なのかもしれなかった。

それでも、石川はまた歩き出そうと思ったのだ。

「俺さ、勉強しようと思って」
「学年末前だもんね。はじめちゃん、二年の前半ろくに学校行ってなかったし、進級ちょっと危険だよね」
「違うよ。そうじゃなくて、そうじゃなくて」
言葉を繰り返してもふさわしい言葉が見つからなかった。あやねは長いまつげに彩られた目をぱちぱちと瞬いて、ゆっくりと笑った。
「うん。いいんじゃないかな、」
優しい言葉に安堵する。また一口、苦くもない珈琲を啜った。
「やるからには一番を目指さないとね。だから、俺、東亰大学行くよ」
真剣に言ったつもりなのに、あやねは盛大に笑った。
「どうしてそんなに飛躍するのかな。はじめちゃんが現役で東亰大学行けたら私なんでもするよ。だって今の成績下から数えた方が早いじゃん」
「うるせぇな。俺はやれば出来る子なんだよ。俺が大学受かってサイン欲しがったってやんねぇからな」
「いらないよ、サインなんか」

温い珈琲を少しずつ飲みながら、窓越しにとりとめもない未来の話をした。
彼のいない未来の話をするのは初めてだった。どうしようもなく、会いたくなる。
そんな夜は繰り返し繰り返し飽きもせず珈琲を入れるんだろう。
けれど、あんなに苦かったその味に慣れた時に、俺はどうしたらいいんだろう。

あなたに会いたくなった。






神様、
あなたに会いたくなった。
――八木重吉






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