新しい世界 実家に戻ってありがたがられるのは、せいぜい最初の二日くらいだ。 去年の秋に病気をしてから、親は口うるさく帰ってこい、と繰り返す。心配されて厭な気持ちのする性質ではないから、特に大きな抵抗もなく、試験の一段落した二月に実家に戻っていた。 昨日は一日中、冷たい雨が降っていて石川の気を滅入らせた。雨の日は厭な事ばかり思い出す。 石川が本当には聞いていないサイレンの音ばかりが鼓膜に張り付いて離れない。両耳を塞いでも、頭の中で鳴るその音は止まない。 浮かぶのは風に浚われそうなほどおぼろな笑顔だ。 眠れないまま時がゆっくりと流れていく。窓の外が白んでくるのを見て、雨が止んだのを知った。それに少しだけ安心して、そして、眠りに落ちたらしい。 気付いたら、陽は随分高く上がっていて、今年で成人する息子の部屋に無遠慮に入ってきた母親に布団をはがれた。 「いつまで寝てる気? 暇なら店番して」 「暇やない」 もごもごと口の中で郷里の言葉を呟いたが、午前の陽は石川には優しくなかった。懐かしいベッドの上で間の抜けた伸びをした。 東京の一人暮らし先では決して口にできないしっかりとした朝食を食べて、石川は仕方なしに店先に出た。石川の生家は石川電機という小さな電機屋を営んでいる。まだ近所では大型店の出店がないのと、昔からの付き合いの顧客がいるので経営はそれほど逼迫はしていない。が、そうそう大物家電を買う人もいなければ、昼頃に電機屋を訪れる人もいないので、非常に暇だ。 意味もなく店番をしていて褒められるのは、小学生までだ。 退屈しのぎにぐるりと店を一周して、先代――祖父の趣味らしい古びた家電製品がガラスケースの中に入れられているのを見て、宮沢がこういうのを見たら喜ぶのか、それとも中原なのかを考えて頭を捻った。 レジの前に置かれたスツールに腰掛けて、サッカー台に頬杖をついた。自動ドアの向こうの世界はずいぶんとあでやかに晴れ上がっている。 今日は空調を効かせるまでもなく、まるで春のように暖かい。硝子の向こうからこぼれ落ちてくる光を浴びながら、石川はうつらうつらした。 突然、ダン、と鈍い音がした。 吃驚して目を覚ますと、自動ドアの向こうで茶色い塊がキャンキャンと吠えていた。どうも、それがぶつかったらしい。 石川はその茶色の塊がなんなのかを理解すると相好を崩した。小走りに自動ドアに向かう。 「マメ」 名前を呼ぶと、黒豆のような目をしたポメラニアンが石川に向かって飛んだ。 「もう、」 と言いながらリードを引っ張ったあやねは、少しむくれた顔をして石川を見上げた。 「ねぇ、あたしに挨拶は」 「散歩?」 あやねは石川に向かってジャンプを繰り返すマメを抱き上げて、「帰ってきてたんだ」と呟いた。 「あれ、俺メールしなかった?」 「してないよ、ねー」 あやねはマメに目線を合わせて話しかけた。話しかけられた当人は何処吹く風で、なんとか石川とスキンシップを図ろうと前足をばたばたと動かしている。 どういうわけか、中学時代から飼っている深谷家の愛犬マメは石川のことをいたく気に入っている。 マメをなだめるようにぽすんと小さな頭に石川が手を置くと、マメは気持ちよさそうな顔をして、あやねはちょっとだけはにかんだ。 あやねはすとんとマメを道路の上に置くと、石川に向き直った。 「じゃあ、行くね。はじめちゃん、店番でしょ?」 「えー、いっちゃうの? つまんない」 ちっとも悪びれもせずに石川は言い放った。あやねが一瞬たじろぐ。中学生の頃は直ぐに言い返せた言葉が時々出てこなくて酷く困る瞬間がある。 「俺も散歩行くよ。なぁ、マメ」 石川は相変わらず彼の足下でじゃれつくマメに向かって言った。そして、すぐに自動ドアを開けて中にむかって叫んだ。 「ちょっと出てくるー。店番たのむわー」 真ん中にマメを歩かせて、子供時代によく走り回った道を歩く。 春の訪れが近いことを告げるぬるんだ風が、少しだけ石川の心を軽くする。 「はじめちゃん、家寄っていけば?」 非常に気まぐれな性格をしている上にマメの散歩量はたかがしれていて、すぐにあやねの家までついてしまった。 小学校の頃から何度も訪れている家に上がり込むのに当然抵抗などなく、石川は軽く頷いただけでその提案を受け入れた。 基本的で室内で飼っているマメを家に上げようと、足を拭こうとしたのに、石川がいることではしゃいでいるマメはリードがはずれているのを幸いに庭に回った。庭に回って、二人を呼ぶようにキャンキャン鳴いている。 「はじめちゃんのせいだかんね」 「何が、」 石川が抗議の声を上げようとした瞬間に、またマメが鳴いた。二人で庭に回る。 マメは庭の隅に転がっていた薄緑色のボールをくわえて得意そうな顔をしている。石川の足下までくるとそれを口から離した。投げろ、と言っているらしい。 「はじめちゃんが責任をもって遊んでやってね、」 あやねは言い放つと、昔ながらの造りの家の縁側に腰掛けた。 「わー頑張れー」 棒読みで応援を始める。石川は一瞬そっちに向かってボールを投げかけて、やめた。マメがとりやすい方に向かってやさしく投げた。 マメは最初見たときのような茶色い塊のようになって嬉しそうに庭を駆け回る。 ボールを拾っては、石川に戻すという単純な動作の中で、一度、甲高く鳴いた。 あやねも、石川もいない方に向かって。 頼りない印象の細い楓の木がそこにあった。 その場所に、よく、伊藤がいた。 三人で遊んでいると決まって、その木の傍に伊藤はいて、ある時など三人でおもしろがって楓の葉を切り集めてあやねの家の人に酷く叱られた。 息が詰まる。 呼吸の仕方さえ忘れそうになる。肺の痛みを思い出して、何もかも手放して叫びたくなる。そうやって叫ぶ十分な酸素を取り込むことさえ怖くなる。 身体がこわばり、視界が段々と狭くなっていくのを自覚した。 ころころと足下を転がっていく薄緑色のボールにさえ手が伸ばせなかった。 あやねが静かに近づいて、ゆっくりとした動作でボールを拾いあげ、石川の手の中にねじ込むようにして握らせた。触れた指先が温かい。 生きているのだと思った。 「なかなか慣れないね、」 ゆっくりと告げた声が、二月の風に乗る。誰にも話せない。けれど、彼女は話すまでもなく知っている。そのことが酷く心強かった。 「うん、」 短く返事だけを返すと、石川のすぐ傍で、あやねが崩れるような奇妙な笑みを浮かべた。 「慣れるわけないね、」 「うん、」 短い言葉だけを繰り返す。 いつまでも、この新しい世界に慣れることができない。 忘れたふりをしてどんなに過ごしても、ふとした瞬間に蘇る心を抑えることができない。何処を探してもいないのだと、頭では理解しているのに、心がついていかない。 「マメ、」 あやねが短く愛犬を呼ぶ。ころころと転がるようにしてマメはあやねの足下にやってきた。その小さな犬を抱き上げて、彼女はぎゅっと抱きしめた。柔らかく長い茶色の毛がふわふわと風に揺れる。 風を止めおくことができないように、彼が逝くのを止められなかった。どんなに手を伸ばしても届かない場所に行ってしまった。 手の中の薄緑色のボールを、青い空に向かって放った。強い日差しに輪郭が仄かに光る。それを石川は受け取ることをしなかった。地面に落ちたボールは小さく跳ねて、それから少し転がった。 石川はあやねに手を伸ばして、マメを少し強引に奪った。その温かい小さな身体を抱きしめる。柔らかい毛に頬を寄せた。 あやねと目があった。 少し、潤んだ瞳のことは追求しない。 彼女は少しだけ構えると、いつものように笑った。 「勝手にとらないで!」 「マメは俺のほうがいいんだって。なぁ」 マメに話しかけると、マメは短く鳴いた。そのタイミングの良さに二人で笑った。 この風の向こうに、伊藤がいて、いつか自分自身も行く街があるのなら、この笑い声を風が運んでくれるといいと思った。 新しい世界にいつまでも慣れないけれど。 でも、大丈夫。 まだ、笑えるよ。 だから、心配しないで。
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