花が咲いている。
 六畳一間の狭い下宿の古びた窓の、どれだけ油を注しても悲鳴のように(ひし)ぐのを、毎朝の
日課で一息に開けて除けた先にそれはあった。あんまり唐突に、取澄ますようにして、
ひっそりと──と云うより眼を凝らすようにして咲いているのが、寝惚け眼に沁むようで
悪くない。
 少し笑った。夏の初めの強い陽射は、朝だと云うのにお構い無しに、世界の凡てを分け
隔てなく照らし出している。
 骨張った、甲の狭い大きな掌で間柱を掴み伸びをする。湧上がる何かに囚われず谷崎は
空を、既に隙なく染上げられた天蓋を仰いだ。
 青い太陽に眼が眩む。




「陽炎」




 椿は夏になんか咲かんぞ――。
 頑な横顔で言い放ったあの時の少年は、確かに谷崎の中に今も棲んでいる。歳月に磨か
れると云うことは、そのまま時間に絆されるということなのだと、それは癒えていく瘍に
他ならぬのだと男は近頃になって漸く思い出している。あの頃の己はと云えば、短く刈り
込んだ板前のような髪型をして、板前のような物書きをやっていた。初期衝動こそが総てだ
と思い込んでいたし、また思い込んでいたくもあった。長く伸びた緩くうねる髪をひと筋、
抓み上げて旋律にならぬ口笛を吹く。
 夏椿と云う花もあるのだと、知っていながら最後まで微笑んでいてくれたあの人は今、
何処で何をしているのだろうと朧り考えた。
 果敢無く、危うく、そして人の狡さを片時も失うことのない人だった。
 一度背を向けたら、決して振向いてはくれぬ処は少しだけ静に似ていた。それ以外は驚く
ほど、似ても似つかぬ。
 開け放した窓からは、噎返るような水の気配と蝉の声が代わる代わる吹込んで来る。
袋小路に面した軒に、気休め程度に笑って提げた風鈴が、風も無いのに揺れていた。
 死んだ男はこの夏と云う季節が好きだった。饐えた匂いの、命と云う命を熟らす、この
季節がそれはそれは好きだった。暑い暑いと喚く己を笑いながら、独特の拙くも(しなやか)な辿辿
しい口振りで巧く丸めてしまう、その稚気(いたいけ)がただ懐かしくて懐かしくて、悼む代わりに
抉られた(あな)を埋めるように手を伸ばした。あらぬ方へと。
 信じた、訳ではない。いつでも信じてなどいなかった。あの、弱い冬の光のように笑う
真似をしてばかりいる人のことなど。
 さびしいのだと、思った。おれも、この人も、屹度さびしいのだと。
 あんまり簡単に騙されていた。実の弟の死ですら、あの人には生まれ育った窮屈な街から
掻消えるまでの場繋ぎに過ぎなかったのだ。


 市川には二つ上の姉が居た。
 (おんな)と云う生き物の、時に毒を併せ持つ狡猾さのようなものを、仕込まれて仕込まれて
育った筈だった。谷崎純一朗は長男だ。同時に末子でもある。谷崎家には三人の姉娘と、
良妻賢母を絵に描いたような亡母の遺影、そして文学愛好家(マニア)の医師である父がいまも嫡子の
帰還を待侘びて居る筈だ。かれらは谷崎が、卒業と同時に他の多くの朋輩の如くに故郷へと
舞戻ることを信じて疑っていないらしかった。長期休暇には必ず、谷崎の都合も聞かず
頭砕しに手土産の一覧(リスト)を電話口で並べ立てる為に連絡を遣す。一回生の夏、忙しいと言って
ふた月の夏休みを帰らずに過ごした時は酷い目に遭わされたものだ。この齢になったから
こそ不承不承服従の意を示してやり過ごすことも出来たが、幼い頃の己にとって、あの
得体の知れない重圧のようなものが、苦痛でなかったとは迚も云えなかった。
 市川には二つ上の姉が居た。
 息を潜め物蔭に咲く死人花(どくだみ)のような、青褪めた白に似ていた。
 眼の眩むような夏の光。絵に描いたような石造りの醫院。片隅の閉切った小部屋。一輪の
愉も得られぬ隠れ蓑。
 嬉しくとも何ともなかった。
 優しい気持ちになどなれた例がなかった。
 否、いっそ、
 どうして善いか判らなかった。


 椿でないならあの花は、一体何だったのだろう。
 そう、思わぬでもなかったのだ。目に見えるものだけが総てではないと、紙の束に拠る
ものだけが事実を告げるのではないのだと、
 知らぬ訳ではなかったのだ。
 今にも沈みそうな陽を映し、山吹色に染まる暮雨(ゆうだち)の中、涌上(わきあ)がる逸り苛立ちにも似た
夏の陽炎。熱に浮かされたごと夢現、眼を逸らした己からも眼を逸らした。誰も、見たく
ないものを見たくないからだ。
 ただ、さびしいのだと思った。おれもこの人も、屹度さびしいのだと。
 思いたかった。思い込んでいたかった。
 あんまり簡単に騙されていた。
 力無く、微笑みを、差出して、


 谷崎ィ――。
 (あち)ィ――。


 不意に鼓膜を敲いた、覚束ぬ足取りにも似た記憶に似つかわしすぎる尖り声に、男は
ぎょっとして窓の外を見遣る。開け放たれた四角い世界から、見上げる顔は唯でさえ眠
たげな半月刀(シュミター)に似た両の眼を(だる)そうに半分方伏せて、恐らくは益体も無い差入れ(もど)きの
入った白い合成樹脂(ビニル)の袋を提げていない方の手を等閑(なおざり)に挙げて見せた。そんな死に
そうな面せんで下さいよ――、勝手に口を吐いて出る(からか)いの文句に己が一番驚いた。
「死にそうなんやからしゃあないやろ。おい、おまえんとこ今年は空調(エアコン)あんねやろな。
その狭い部屋に六人溜まれる気温ちゃうぞ」
「ありませんよそんな無粋な物」
「あほぉ。自分ち蒸風呂(サウナ)にしてなァにが粋じゃ。頭ン中茹っとんとちゃうか」
 変声期の少年のように(しゃが)れた、憶えのある声はまるで馴染まぬ訛りの強い言葉でそう
捲くし立てると降りて来いと命じた。宮沢と石川と竹久が――。
「この距離で迷いよったんやと。俺はこの炎天下迎えになんか戻りたない。おまえが行け」
 無茶苦茶だ。この距離でと云った舌の根も乾かぬうちに、どんな自己中だと可笑しく
なった。少し笑う。
 死んだ男は誰にでも優しかった。いつでも笑って、ただ柔らかくそこに居た。谷崎は
大袈裟に肩を竦め長く伸びた緩くうねる髪を片手で掻きながら、判りましたよと(おど)けた
顔で敬礼をした。
「三十秒で支度しろ」
「ドーラ婆さんかあんたは。――なあ、中原さん」
「あァ?」
 どれだけ健に油を引いても悲鳴のように拉ぐ窓枠(サッシ)に頬杖を付き、谷崎は袋小路の存外
似合わぬその男に気紛れに問うてみた。あんた、夏は嫌いか――。
「何や急に。好きやでー、ただ」
 訝しげに頸を捻りながら、相変わらず姿勢の悪い立ち姿で中原はいとも簡単に口を開いた。


 ──夏は好きだけど、暑いのは苦手なんだよな。


 変わらぬ笑みを浮かべながら、市川はあの日そんな風に谷崎の刺刺しい問いに答えた。
それは好きとは言わねえだろう――、頑な横顔で言い放った己を、少年は矢張り、笑って
ただ受容れた。暑いのは厭やねん、と、続いた言葉に苦い笑いを貼りつける。そうかい――。
「あんたらしいな」
「あァ、せやけど、春のが好きやわ」
「――春?」
 春は眠くなるから、苦手だな――。
 水を打つような声が脳裏を(かす)める。そこにある現実がぐらりと傾いだ。
 陽炎馨る夏の初めの土瀝青(アスファルト)に立ち、矢張り水を掻くような、危い声をした男はやけに
誇らしく頷いた。


「ええやん春。眠たなって」


 耳にするや否や噴出していた。げらげらと声を挙げて笑う。狐に抓まれたような顔を
した、年嵩の友人に上がれよ――と笑い混じりの声を漸く投げかけた。立っていられなく
なりそうだ。何処までも期待を裏切らぬ男だ。
「何じゃこいつ」
 いっそ気色悪そうに呟いて、はたと我に返った中原は袋の中身に思い当たって青くなる。
呑気に(じゃ)れている場合ではない。やばい、アイス絶対溶けた。
 入替わり更に老朽化の進んだ階段を降りてきた谷崎から鍵を受取りながら、おい、帰りに
アイス買うてこいや、溶けたから――と言い放つ。はいはいはいと意趣返しのように等閑に
答えて、谷崎は替えたばかりの携帯を取出した。まずは連絡、と――。
「てかなんで鍵かけんねん。そことここやないかめんどくさい」
「油断大敵ですよ。気を抜けば負けだ。ここは大都会東京だぜ」
 澄ました顔で肩を竦めて、駅へと向かい歩き始めた。と言っても精精七八分しか歩かない
のだが。この距離で迷うだなどとは随分器用な連中だ。
 簡単には騙されなくなったのだ。
 信号待ちの踏切辺り、思っていたのとは違う唄を不意に携帯が歌った。少しだけ驚き
ながらまた取出して画面を開く。電話好きの静がメールとはまた珍しい。


 ――軽井沢って案外暑いわ。東京も暑いでしょう。谷崎君は夏が好き?


 無機質な丸ゴシックの文字が奇麗な音節を並べる。声に出して読まれる事を考えている
かのような、静のメールがその希少価値以上に谷崎は好きだ。ぽつりぽつりとまるで単語を
思いつくまま並べたような、あの人の取留めの無い短い文とはまるで似つかぬ。
 夏は――。
 嫌いではないが、好きだとも言えぬ。去年の今頃ならただ正直に、その通り答えていた
だろう。打たれ響く音こそが、それだけが凡てなのだと信じていた。それを耳にした誰かが、
全体どう云う気持ちになるのかなど、考えてもみなかった不調法者を、見放がず今日まで
傍らに立ち続けていてくれた、無言の背中が叮嚀に手入れされたその黒髪(ブルネット)以上に谷崎は
好きだ。


 ――暑すぎるのは正直参るけど、夏は好きだよ。昔から。


 無機質な丸ゴシックの文字を詰めて、上手に嘘を吐いてみる。
 この嘘が嘘でなくなればいい。決して(こそ)げぬ真実になっていけばいい。
 そう、と小さく笑う顔を思い浮かべた。谷崎が何かを好きだと言うと、静は決まって
少しだけ嬉しそうな顔をする。自分のもののように己の名を呼ぶ、静の声がその張詰めた
弦のような響き以上に谷崎は好きだ。


 花が咲いている。
 六畳一間の狭い下宿の古びた窓の、どれだけ油を注しても悲鳴のように拉ぐのを、毎朝の
日課で一息に開けて除けた先にそれはあった。あんまり唐突に、取澄ますようにして、
ひっそりと──と云うより眼を凝らすようにして咲いているのが、寝惚け眼に沁むようで
悪くない。
 また少し笑った。骨張った、甲の狭い大きな掌で長く伸びた髪を掻く。いつでも弱く
笑む真似をしてばかりいた、あの人が教えてくれなかった夏椿――沙羅樹の花はけれど
そろそろ散ってしまうだろう。谷崎は肺の向こうを掻毟るような夏の陽炎を大きく吸込んで
空を仰いだ。
 青い太陽に眼が眩む。もうすぐ静の生まれた日がやってくる。


 





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そしてこのあと谷崎は迎えにいってあげた客三人に髪を切られます。
悪戯で。爆笑。
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