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JR新宿駅から緩り歩いて二十分。
文化センターの駐車場でその人を見つけた。
一度だけ目にした事がある。それだけで眼に焼きついた、子どものような小さな背中。
呼止めたのは、酷く厭な予感がしたからだ。
消えてしまいそうな気がしたからだ。
「運命と花」
ほんまはねえ、と水で薄めたような声がした。捉え処がないと云うより、触れてはならぬ
ような声だった。頬を撫でていく朝焼けのように。熱を持った躰に分入る冷えた
披鍼
(
ランセット
)
の
ように。石川は二三度短く瞬きをした。秋雨の気配がまた少し濃くなった。
「あたしが、いなければいい、そんなことみィんな知ってるんやわ」
ばかみたい。謡うように呟いて、根津は短い髪をさわさわと揺らした。頸を振ったのだ。
生糸のように希薄な光沢をもつ、白い肌だ。その年頃の青年としては決して大柄な方では
ない石川の、肩ほどもない小さな背中は向こうが透けて見えそうで、鬱蒼と汗ばむ
梦
(
くらがり
)
を裂き
聳える、水銀燈の白とあまりに相容れぬのが漠然と不快だ。どちらにも幾許か非のある
話だ。石川はそうした小さな齟齬ほど素知らぬ振りで躱せぬように出来ている。優しくは
ないと思わぬでもない。
「やめてよ。そういうこと冗談でも言うの」
「冗談ちゃうもん」
「余計
厭
(
や
)
だ」
「呆れたわァ」
子供のように根津の言葉を突撥ねた石川の、下手だが判り易い
調停
(
フォロー
)
のようなものを、
一粍の狂いもない言葉が更に穿つのだった。石川は
繻子
(
ビーズ
)
のようだと不可解な感嘆符を浴びた
真黒な双眸を神経質に歪めた。この人の言葉は苦手だ。ただ正しいと云うだけの、借物の
ような芙美の言葉や、まるで綻びだらけのようでも、やけに生きた色で持主を飾る竹久の
言葉よりも尚行き場を失くす。壁際に追詰められるような、それは味気無いほどに真実に
近しい。
「可哀想にって言われたいん?」
昨夜は何を食べたの、とでも尋ねるような、事も無い音色で根津が問う。絶句した石川の、
恐らくは奇妙にひしゃげた顔を見てふっと解けるように笑った。ごめん、変な事訊いた――。
「そんなんじゃねえよ」
「うん」
「寧ろ言われたくない」
そう、と、まるで上の空と云った声が石川の尖った言葉をふうわり遮った。真実どうでも
善いのだ。安直な決めつけが何より嫌いなかれにも、抗いようもないほど瞭りとそれは伝い
来る。黙りこくったまま、忌忌しさに任せて投捨てた煙草を蹂躙る。すぐ傍を不揃いな
歩幅で進む根津の幼子のような小さな靴が眼に這入った。ふわふわと覚束ぬ、重力の械を
失くしたような足取りは、こんな夜更けに靖国通りの交叉点の人波の中、泳がせておける
ものには迚も思えなかった。何処へでも神出鬼没に現れる癖に、今夜に限って中原は
一度も電話に出ない。
あの子に会いにきたんとちゃうし、十一月の末の糸を引くような凍雨に、善く似た声で
根津は言った。仮令そうだったとしても――根津が嘘を吐くとは何故か到底思えなかった
が――石川のような
常識人
(
、、、
)
に、ハイそうですか左様なら、と手を振って、済ませられよう
筈もない。何処に向かうのかなど知りたくもなかったが、通り過がってしまった以上、
最低でも行き先のある切符を買い、改札を潜る処までは見届ける義務がある。知らない
方が善いこと、見て見ぬ振りをすべきでないこと、その線引きはいつでも酷く曖昧なもの
だ。答などない。
「病気してたんやて?」
学祭出来んと、残念やったねえ――。幾分優しげな声で言って、振向いた根津は笑った。
隅隅まで意の通った、小さく
暈
(
ぶ
)
れるような笑みだった。
「文化祭、来てたんだ?」
らしくもなくぼそりと石川が問うと、根津はまた少し、かたちを変えて笑った。頷くでも
否むでもなく、けれど本当に来てはいなかったなら、この人は瞭りとそれを口にするよう
にも思えた。丁度今日のように、誰に何を告げることなく、遠くから眺めていたのかも
知れない。
もう良いん、と懐かしい抑揚が問うので色色なものを思い出す。矢張りらしくもなく
黙ったまま、石川は小さく頷いた。善かったなあ、と幼子でも
馴
(
あや
)
すような声がするのに
被せ、憮然とした声を作って問うた。
先刻
(
さっき
)
の――。
「なんよ、先刻の。どうして居らん方が善いとか、」
やめてよ、と違う意味を込めて言った。嘴を挟むほどのことを、石川は何も知らない。
何かある、それだけを知っていれば十分だと、石川自身の抱えた瘠せおとろえた記憶が、
ひとつひとつ決して繋がらないあの人の、絵具を打撒けたような沢山の言葉がそう言張る
からだ。だから石川は何を問うこともなくたったひとつを解っている。簡単には行かぬの
だと。それだけを。
「これ以上中原さんが情緒不安定んなったらどうするんよ。徒でさえ分裂気味なのにさあ」
「分裂気味やって、ひっどいわあ」
「だって。そうやんさ」
会いに行きなよ。
跣
(
つまさき
)
を揃えぬように一歩一歩進みながら、
留針
(
ピン
)
で挿すように口にした。
その前に横たわる幾つもの溝や翳りや、そうした凡てを見て来たような顔で。ざあ、と
枝切風のような音を立て、真夜中の靖国通りを白のセダン――速過ぎて車種までは見え
ない――が走り抜けていく。気を抜けば崩れ落ちそうな墨色の天蓋の、ずしりと湿った
重圧も眼には見て取れぬ。
「誰も困らないよ。そんくらい」
出来るだけどうでも良さそうに言った。
遠雷が渡った。
水銀燈の列は相も変わらず、凡そこの場に相応しからぬ居丈高な色でこの道の先の先まで
伸びている。
あたしが、と言いかけた言葉を縫直すようにして根津は少しの間黙った。堰を切りそうな
何かを、飼慣らしている様には見えなかった。縺れた糸を解くような、静か過ぎるその
横顔は少なからず、石川に先刻から続く息苦しさを与えた。執拗に。周到に。超える術など
無いのだと。
「あたしが、例えばいきなり行ってな。それであの子が、…困るとか。そういうことは
無いんよ」
それが一番、あの子を困らすことなんよ――。
酷く手慣れた口調で、少女のような女はすう、と惜し気もない言葉を差出した。耳を
塞いでしまいたくなるような、それは味気無いほど真実に近しい。
「困るくらい何でもねえし。何でもねえよ。誰がいつ居なくなるかも判らんのに、そんな
ことで」
「そういうことかって、考えたこと、なくはないし」
「…どういう意味」
「気ィ遣うて、そう云う話、避けて貰えると思たん?」
言うたやろ――。
あたしが、いなければいい――。
迚も、迚も、つまらなそうな声がそういった。容赦のない背中は矢張り向こうが透けて
見えそうに小さく、どちらかと云えばそのことが、どこかに残されていたのかも知れぬ
石川の退路を断った。息を飲むかれを手遊みに撫でていく眼眸は、それでも美しい色を
していた。水銀燈の
臟噪的
(
ヒステリック
)
な皓光に、まるで似わぬ美しさだった。
息が止まりそうになる。
「ある時気付いてしまったのよ。あたしが、例えば死んだら、全部それで済むんやわ。
あの子は、…時間かかっても、ずっと、ちゃんと、生きていける、…今よりずっとそう
なれるでしょう」
退屈な書面を読上げるように切って落とされた言葉は、最後の最後に擦切れそうな優しさ
を滲ませながら不意に途絶えた。ふっつりと穀雨に消えた、指一本動かせぬその弱さは、
凡ての音を奪って尚余りあるものだった。
静かになった。
でも、と、
強くなった雨足に傘の鳴る音をすり抜けて、微かに鼓膜を
顫
(
ふる
)
わせたその
霞
(
さざ
)
めきを、石川は
暫くの間忘れる事はないだろう。
小さな背中を向けたまま、根津はぽつりと呟いた。
「でも、あたし、馬鹿やもん。人間やもん。生きてたいもん」
せやからそういうことは、しない、悪戯を仕掛けた子どものような顔で、くしゃくしゃと
根津は笑った。本当に笑ってばかりだな――と、まるで関係ないことを思った。
それでいいじゃん――と、石川も笑おうとしたが、少しばかり遅かったようだ。水溜りを
跳ねるように飛越えて、少女のような違う生きものは腕組みをして、また笑う。
「映画に出たいな。あの子が作った映画。せや、女優んなろうかなあ!」
「その身長じゃ無理じゃないの?」
凄えミニマムカップル、と言って石川は底意地悪い笑みを浮かべた。先輩を敬いなさいッ
と、存外威勢の良い叱咤が飛んで来るので声を挙げて笑ってしまう。自分のことで先ず
怒りなよ――。
「別に気にしてないっぽいよ、つうか、認めとおよ本人」
「それでも」
じろりと横目に石川を睨めつけて、根津は酷く、あまりにも呆気なく、ただの時報か
何かのように言葉を繋いだ。あたしはあの子の肩持つもん――。
「あの子が自分が悪いて言うても、あたしはあの子の味方をする」
小さな躰に不相応なほど、ありったけの感情を込めて根津は笑った。
水銀燈の酷薄な白に、まるで馴染まぬ誇らしさで。石川は二三度短く瞬きを
した。食み出しそうなその笑みの描き方ですら、いっそにべもない程に、
味気無い真実に似ていた。
JR新宿駅の東口は、次の角を曲がればもう見える。
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石川にだいぶ夢を
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