「忘れ物」








 薄らと顔料(インク)の着いた指で眼を擦る。読みかけの古い漫画雑誌を放り捨てた。見上げた古い
天井はまるで見慣れぬ、少しも網膜を灼かぬべったりと平坦な色彩を、にべもない長方形の
内側に惜しげもなく晒している。
 外は雨だ。見えなくとも音で知れる。陰鬱な陰鬱な空気の重みが声高にそれを主張して
いた。みしみしと軋り鋏のような雨音はひとつ、ひとつ、やがて抱えきれぬほどの膨大な
呟きともため息ともつかぬ悖徳(うしろめた)い音の塊となって無防備な鼓膜を齧る。齧ってゆく。
 耳を、
 ――塞いでも音は聞こえ続けるだろう。
 眼を伏せてしまいたかった。せめて視界から流れ込む何かだけでも塞いでしまいたかった。
初めて目にする光景も、染みひとつない潔癖な白さの壁に囲まれて眠る夜も、何ひとつ、
何ひとつとして吾身を苛むものはない。頬を撫でるような優しい時の流れに、赦されて
赦されて生きている。ただ己だけが己を赦せぬのだ。
 ぞろり、と、瞼の裏の粘膜に眼球の擦れる感触がした。(こそ)がれるような感触だ。眼が
渇いている。
 信じ難い程に疲れている。
 雨音を黙って徒遣過す。例えば手遊みの空想も、他愛ない言葉遊びにも似た弁解(いいわけ)も、
自らの行為を(おぞま)しく(ひもと)き直すことさえも、いまここに沈み込む射干珠の闇のような躰には
叶わぬことのように思えた。開放たれた視界を、湿すことすら直ぐには(あた)わぬ。
 投出した脚の、膝と脚頸が鈍く痛む。雨に軋るような傷を負った憶えはなかった。この
痛みは何の痛みだ。熟熟と耳鳴りを辿るように稼働率(コストパフォーマンス)の低い頭を巡らす。
 嘘のように間近に浮かべることのできる手触りや、短く息を継ぐ音、煤けた海辺の陽射の
匂い、その凡てが現実である保証など無い。本当の本当には、いま背にしているこの痩せた
煎餅蒲団からして、硬く無慈悲な地表であったとしても、何の不思議もありはしないのだ。
二十年と少しの記憶を(なす)り着けられた廃人の見る夢であったとしても、己がそれを()る術は、
 無いのだ。


 薄らと顔料の着いた指で眼を擦る。
 雨音は脚を(ひきず)り歩いた痕を、何もかも洗い流そうとでもするかのように鳴響く。微かに
心地良く、金繰り捨ててしまいたくなるほど咒わしい。


 眼を、満足に伏せることすら叶わぬまま、瞼の淵を先刻(さっき)捲った漫画の、切取られたような
場面が祓祓(ぱらぱら)と通り過ぎてゆく。浮かんでは消え浮かんでは消え浮かんでは消え浮かんでは
消え、幻覚のように緒を曳き、ありもしない暗闇の底を這擂り回る。
 おれが今ここに居るおれであるためにはと考える。頑是無い祈りのように唯考える。
指紋の溝に沿い顔料の染みた指先、引攣れた傷と火傷の痕が綻びのように走るこの手に、
手繰り寄せることの出来る記憶が見掛けの張子(はりぼて)でない証拠など何処にも無い。ああ横からは、
横からは見せないで欲しい。痩衰えた骨組みが、覗けてしまったらもう生きては居られまい。
 刷込まれた記憶。だとしても今はその中で生きている。莫迦げた考えだと判っている、否、
信じている。そうしてひとは生きる。生きて、生きて、涸渇した妄想の果てに死ぬ。脳は
心を騙し続ける装置だと云う。ならばその音律だけでも十二分に忌まわしさを伝える、
たましいとやらは何に似ている。


 記憶は命と、繋がっているのだろう。ふとそんな風に思う。ひとはひとであるために、
出来るだけうつくしい、馨しい(かたち)で、夢の(あと)を遺さねばならない。そうすることで初めて、
肥大した臓器を頭蓋の奥に抱え、二肢で歩ける以上の生きものとなる。騙し賺ししてやらね
ば、(たね)のひとつ撒くことも叶わぬのだ。怠惰な命を恃みに何を生きる。何処へ(かえ)る。


 薄らと瞬きをした。まだ息をしている。それ程に疲れている。
 湿り気を帯びた埃の、(なまぐさ)い風が排気口から吹きつける。
 これは現実か。なあ、誰に訊けば善い。これは現実か。ほんとうにある、ことなのか。
 写真でも見返さぬ限り輪郭すら辿れなくなった顔がどうしても消せない。消そうなどと、
考えたこともなかったが、恐らくは消せまい。
 記憶は命と、繋がっているのだろう。
 それは、
 夢と、
 同じ色か。


 たった一つの温度が、
 乾いて切れた唇から覗く微かな鉄錆の味が、
 繋いでいた白い手が、
 矢継ぎ早に息を継ぐ音が、
 攫めもしない搾り糟のような青痣が、
 聴こえなかった言葉が、
 鳴響く発車の電鈴(ベル)が、
 緩りと空になっていく掌が、
 そのなかに掴めてしまった瘠せた肩に貼りついた肌のつめたさが、
 醒めた銀色の雨に濡れた停車場(ホーム)の床が、
 (はだし)(つまさき)に懸かった皺皺の薄い(きれ)が、
 訝しげに振向く見知らぬ老耄れた男が、
 冷えた空気に(むずか)る左手の中指の骨が、
 ()れながらひとつ枡を進める時計の長針の黒が、
 鮮やかに緒を牽き雑ざりあう見送りの人びとの(まと)うた色が、
 白い息が、
 滲んで消えた窓硝子の向こう側が、


 眼を醒ます事の出来る向こう岸の出来事ならばどんなに善いかと、…


 そう云えばこれは霊魂だの回帰だの、彼岸此岸だ何だと云う話だったなと、捨てておいた
雑誌の微穢(うすぎたな)印字(プリント)の凹凸を指で辿る。
 見る影も無く打擲(うちひし)がれた躰でも、その程度は叶うものかと、思いがけず造作なく動く
掌を凝乎(じっ)注視(みつめ)てみる。  昼間遇った少年の、無邪気な言葉がもう幾つも思い出せぬ。
 みずからを畸形と思い知らされたあのおそろしく暑い夏は、あの少年よりもずっと、
ずっと幼い頃の話だ。
 長く長く続く足痕の上に枯れぬ花が咲いた、刺すような冬ももう遥かとおい昔話か何かの
ようだ。
 何処に行けど、
 何を、
 視れど、


 指先に触れた何かを、力任せに壁に叩きつけた。
 それが何かを把握するより先に、ただ、無茶苦茶に叩き潰し、そして毀した。
 肘近くまでを捩込んだ屑籠から、鈍鈍と手を引抜く。指先は冷たく、乾いて少し悸いて
いる。
 引結んだ口許から、ささくれて乱れた、息がひとつ零れた。
 取りに戻れだと?
 取りに戻れだと?
 おれに歩ける道などこの足許に伸びた一本きりだ。




 不意に復た、膝下に鈍い痛みを感じて拾い上げかけた分厚い雑誌を今度こそ遠くに放擲てた。
手を伸ばしても手を伸ばしても、ここにこうして居たのでは、決して届かぬ場所にどうにか
追遣った。
 薄らと顔料の着いた指で眼を擦る。忌忌しい。忌忌しいが、おれはいまどうしても、この
記憶置換機と云う玩具(おもちゃ)が欲しい。








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札幌一夜。
BLEACHを読んでいたようです
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何かありましたら
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