解っている。解っているのだ。
　どんなに矛盾を優に超えた、それが望みであることなど。




ⅵ




　――北原君は。


　可哀想やね。静の言葉とは全く意味の異なる、同じ言葉を一年近く前にも浴びたことが
ある。悲しいほど無防備に根津は笑った。向こうが透けて見えそうな顔で笑った。忘れも
しない九月十日。恙(つつが)なく凡てに折合いを付け、どうしても必要になった部品を買いに北原が
ふらりと上京していたその同じ日に、偶然この街に足を向けたらしい根津と街中で鉢合わ
せた。共通の知人――該当者一名――以外にこちらに伝手などなさそうなものだったが、
深く訊くことはしなかった。その口振りから察するに、度度所用でこちらに出てきている
らしいがその内容までは定かではない。知らなくても善いことなのだろう。
　可哀想やね、ぽつりと呟いた根津は何かを諦めるように笑った。
　――頑張れんくなる時、あると善かったのにな。
　そんなことはないのだと、伝えることは矢張り出来なかった。口を開く前にどこから
ともなく顔を出した、矢鱈と士気(テンション)の高い石川に思い切り邪魔をされたからだ。この学年の
男どもは、揃いも揃って狙ったように皆間が悪い。
　止まることなど容易かった。
　ただ、立止まる自分になど用が無いだけだ。


　欲しいものがあった。
　指一本動かせぬほど雁字搦めの安寧よりも、
　意志の力をなみなみと湛えた、射るような美しい人の眼眸(まなざし)よりも、
　ずっと、欲しいものがあるのだ。






「一緒に行こう。リコシェ、」






　ぐっしょりと濡れそぼったような、茜色は益益その色を増していた。
　桃色から紫へ、紫から濃藍へと、注し色を変えていく空を見上げ、立ち止まらぬよう
緩慢(ゆっくり)と歩いていく。履き慣れた靴で見慣れてしまったこの道を、緩慢と緩慢と歩いていく。
　角をひとつ折れる時視界の隅を翳めた、小さな庭に咲いた大きな向日葵の花は、逆光に
玄(くろ)く染め上げられて尚、枯れていくその様を惜しげもなく露呈している。
　皺枯れた葉の黄緑を、
　歯の欠けた櫛のような黒ずんだ花弁を、
　気に入りの光景とは別に目蓋の裏へと落とし込む。
　解っている。解っているのだ。
　この痞(つか)えを跡形も無く溶かす術など。


　――颯は昔から、おれのこと嫌いだもんな。


　恙なく凡ての段取りを済ませ、小さな鞄ひとつであの家を出て行こうとする兄に、弟は
酷く寂しそうに、拗ねたようにそんなことを言った。


　――でも、おれにはさ、自慢だったよ、颯は。


　恐らくは決死の覚悟で呟いたのだろうその言葉に、曖昧な笑みをひとつ残してその場を
後にした。返す言葉など持ち合わせていなかった。けれど今なら、せめてひと言、苦笑い
しながら擂(なす)りつけてやれそうな気がする。
　ずっと羨ましかった。級友の、両親の、姉弟の、生き方が。
　身の程を知り、その丈に合った決して不可能でない道程を、確乎りとゆく幸せを見出す
かれらの、その覚悟が。
　それでも駄目だった。耐えられなかったのだ。北原には小さな躰に抱えきれぬほどの
強烈な憧れと得体の知れぬ焦燥が初めから満ちていた。気が付いた時には駆け出していた。
何処に居ても何をしていても、一瞬たりとも安らいだことがなかった。熱した錐に掻毟ら
れるような思いを知らずに済んだ代りに、膝から地面に倒れ伏すような、色鮮やかな
安堵を手にした事も無かった。
　等身大の道を歩む覚悟も無く、負戦に身を投じる気概も無く、何か無いのか、何処かに
行きたいのだと喚く声を抱えながら騙し騙し生きてきた。そんな茶番はもう沢山だ。上田
便箋と云う人を喰ったような名が印刻(クレジット)された映画の終幕(エンドロール)を観ながら、願ったのはそんな、
本当に些細なことだった。
　二度と同じ過ちは繰返すまいと決めた。
　欲しいものがあった。
　それは矛盾を優に超えた、酷くばかげた望みだった。




「駄目よ。あたしはあなたみたいに、速く走ることなんてできないし、それにあたしの
足を見て。つるでがんじがらめよ。とっても動けないわ。」
　困ったように笑って、リコシェは静かに言いました。
　それはそのとおりだと、本当にそのとおりだとホッパーも知っていたけれど、あきらめ
きれずに今度はこう言いました。
「じゃあ、僕もここに残るよ！」
　すると、まるでなんでもないことみたいに、リコシェはやっぱり言うのです。
「それも駄目。ホッパー、あなたも知っているでしょう？」


「どこにでもいける切符は、本当にどこにだって行けるけど、ここにだけはいられないのよ。」




　あれは悲しい映画だった。脚本の位置に明記された名の主が、三つかそこら年上の、まだ
ほんの少年であると云うことが、信じられぬほどに深い亀裂を抱えた悲しい物語だったのだ。
　うだるような夏の日、閉切った部屋で独り、食い入るように画面を凝眸(みつ)めた。瞬きする
事すら、時に何度も忘れた。
　右端に空く入鋏(パンチ)の円い窩さえも、総て計算しつくされた効果のように映った。
　粘土細工の飛蝗も南瓜も、いつも同じ顔をしていたのに、角度によって泣きも笑いも
した。動悸がした。眼の奥がちかちかとした。
　息をするのも忘れてしまいそうになる。




「ねえホッパー、言ったでしょう。おもちゃかぼちゃがどんな色やもようにだってなれる
のは、この畑の中だけなの。外に出たら、あたしはずっと青いままだわ。」
　そんなの嫌。リコシェは小さなからだに似合わない、きっぱりとした力でいいました。
「それがおもちゃかぼちゃの幸せだもの。」
「…リコシェ、僕は、」
「ホッパー。あなたたち、米つきバッタの幸せは？」
　忘れるはずはないのに、今になってリコシェは、そんなことを訊くのでした。
　わからないはずはないのに、ほんの少しの間、だまって考えていたホッパーは、
　その強くてたくましい二本の足に似合わない、小さな声でポツリと答えました。


「……どこにでも、行けることだ。」




　涙が零れた。
　想っても想ってもただ生きているだけで足許から分かたれて行く、こんな儘ならぬ別れが
この世にあるなどと、その時になるまで北原は想像したこともなかった。
　こんなのって、
　――こんなのってあるか。
　たった三つかそこら年上の、まだほんの少年だというこの人は、何を見、何を耳にして、
こんな話を綴ったのだろう。愛嬌のある粘土細工と、柔らかな口調の講談(ナレーション)、奇麗に隠蔽工作(シュガーコーティング)
された絵本のような流れの底に、絶望的な孤独が深く、冷たくとぐろを巻いている。
　iTuneの画面を食入るように凝眸めて、壊れてしまったようにただ涙を流し続けた。
今のままでは、こんな処に迚も辿着けないと思った。憧れた。殆ど気が狂(ちが)いそうに。
　馬鹿げた望みだと解っている。冒涜以外のなにものでもないと誰より判っている。けれど
望んでしまったのだ。予想だに出来ぬ場所へと連れ去ってくれそうな――その絶望を。
悲しみを。
　一度手にしてしまったら、二度と此岸には戻れなくなる程の光と影を。




　紫から濃藍へ、濃藍から昏黒へと、注し色を変えて行く空を見上げた。
　解っている。解っているのだ。
　この咽の痞えを跡形も無く溶かす術など。


　――そろそろ潮刻かも知れんな。
　そんなことを思った。
　二つ目の角を折れた。


　花屋が見えた。


「――、」
　まだ冷めやらぬ真夏日の名残に、水撒きをしていた少女が北原の姿を目に留め、口を
開こうとした。
　それを押留めるようにして、ポケットを探りながら尋ねる。
「……仏花というのは。いつの季節でも変わらんのかな」
　出来るだけ淡淡と、穏やかに口にしたつもりだった。
　醒(お)きてから一度も喋っていなかったから、声が掠れた。
「え？」
「墓参りなんか線香ぐらいしか揚げたことないからな。善く知らんのよ。大体どんなのが
あるんだ？」
「墓参り？」
「おう」
　鹿爪らしく頷きながら、あ、あんまり値の張らんのでお願いします――と付け加える。
狐に抓まれたような顔をした和已は、それでも踵を返すと幾つか花を選んで束ねてくれた。
菊や蓮の白に傾いた地色(ベース)に、桔梗の藍の美しい、とても小さな花束だった。
「やっぱその辺なんだな」
「何だよ。文句あんの？」
「ないよ。奇麗だな」
　思いがけずすんなりと笑って、礼を述べると少女は黙ってしまった。値段を尋ねると
別に要らない――と言われた。もの言いたげな眼で、それでも口を噤む。疑いようも無く
やり悪そうだ。悪い事をしたと思うと、その眼が酷く眩しい。
「……のさ、」
「この前の」
　――人の言葉を横取りしてばかりだな。
　道を塞ぐように口を開きながら、朧りそんなことを思った。掬び直された口許の、小さな
黶が眼についた。
「……猫をな。この近くに埋めたのよ」
「この辺？　何処にさ」
「今から行くんだ。くるか」
　気紛れのように問うて背を向けた。初七日だな――。
　慣れた手つきで前掛(エプロン)の紐を解きながら、和已はその背中に向けて答えた。
「行く」






　それは煉瓦色の屋根と、混凝土塀に挟まれた、酷く美しい幾つかの色彩と静謐な歪みを
持ったしずかの道だ。
　緩い傾斜を登りきると、急に視界が啓ける。取壊された古い宿舎(ホテル)の残骸と、都下らしく
長閑(のどか)な田畑が広がる畦道に、向日葵が群れ咲いている。付属の高校が近いのだ。生徒が
植えて育てたものらしい。
「……こんなとこあったんだ」
「案外知らんのな地元人」
　何処かしら魂を抜かれたような声に、面白そうな顔が出来ていただろうか。和已は怒る
でもなくただ、全然知らなかった、と答えた。
「そうかあ」
　少し笑った。あっちだ――と指を差しながら、憑きものが落ちたように幾つかのものを
諦めた。無駄口が多くなって、足取りが軽くなって、けれどこの先に待っているものを、
かれ自身何よりも善く知っている。
　向日葵の群れを仰ぐように、窪地に置かれた小さな道祖神の前で立ち止まる。ここに――。
「埋めればな、向日葵がな、良く見えると思ったんだよ」
　だからな、供花なんか要らないかと思ったんだけどな――。
　言葉を濁しながら、高台の向日葵を見上げた。皺枯れた葉の黄緑を、歯の闕けた櫛の
ような黒ずんだ花弁を、気に入りの光景とは別に目蓋の裏へと落とし込む。
「殆ど枯れてんじゃん」
　実も蓋もない和已の指摘(ツッコミ)に、そうだな、と頷いた。間髪容れず呆れたような声が飛んで
くる。「あんた、意外と馬鹿だろ」
「そうさあ。莫迦だぜえ、大莫迦だ」
　苦呶いほど請合って声を挙げて笑った。可笑しかった。本当に可笑しかった。
　さらさらとまだ青い稲穂を風が渡った。微温く湿った、けれど心地好い風だった。
　あんたって確か――。合わせていた掌を解きながら少女が言った。
「竹久先輩の後輩だっけ」
「先輩っつうことは、そっちもか？」
「竹久先輩はOB。バスケ部の」
「バスケか！」
　似合いそうだなと我ながら何が嬉しいのか笑いながら答えた。凄かったよ、と楽しそうな
顔に言われた。
　竹久夢志は頭の天辺から足の爪先まで、北原にないものだけで出来ている。
「竹久さんはなあ。恰好いいよな。でっかくて」
　この街に来てからのかれを、見慣れたものにすれば驚くほど緩やかに笑って、少年は
――少年を已めつつある男は謔けた所作で腕組みをした。何でも――。
「でかい方が恰好いいじゃん。空母とか輸送機(ジャンボ)とか蜻蛉(とんぼ)とかさぁ」
「飛ぶもんばっかだな」
「あの人空とか飛べそうじゃね？」
　本当にそう思ったから真顔で言った。屹度飛べるね、と矢張り真面目な顔で返された。
また少し笑う。
　竹久夢志は本当に、頭の天辺から足の爪先まで、北原にないものだけで出来ている。
　その総てを、望んだことがないと言えば、それは大きな大きな嘘になる。
　肩の荷を降ろすようにまた幾つかを諦めた。
　この場限りでも。ほんのいっときでも。


「……何だっけ」
「ん？」
「あんたの名前だよ。何てんだっけ」
「――は、」
　知らんのか、と呆れ果てて、それから笑った。腹の底から、声を挙げて笑った。北原は
滅法一部の女子に囲まれ易い質だ。近隣の部室の住人達には、恰も旧知の仲のように――
偏った印象ばかりが――知れ渡っている。素姓は割れているものと、思っていたから最初
からあんな態度を取ったのだ。今更名前を訊かれるなどと思ってもみなかった。
　奇妙なものでも見るような眼をして、和已はすぐ傍に立尽くしている。
　何を今更。北原颯吉は自他共に認める奇人である筈だ。少なくとも、この街に於ては。
　少なからず身構えていたのが馬鹿らしくなってまた笑った。
　いつの間にか、知られていることが当たり前になっていた。馬鹿げた話だ。そんな
状態の方が、本当は異常なのだ。
　忘れていた。本当に忘れていた。あたり前のことばかりを。


「北原颯吉。下の名前の大時代感がありえんので嫌いだ」
　こんな字を書くよ。まだ少し笑いながら携帯を開いて見せた。藍色に染まった宵闇の
中に、青白い光が茫と浮かんだ。
「それ、頭良いな」
　あたしの名前も読めないからと言いながら、和已も自分の携帯を開いて見せてくれた。
薄っぺらな魔法の道具を片手でひょいと取り上げる。
「これ、赤外線とかどうやんの？　あ、これか」
「は？　何しようとしてんだよ！」
「何って情報(データ)通信」
　あっけらかんと即答しながら用の済んだ携帯を返した。絶句する和已に、潰れた紙風船の
ように気の抜けた笑みを浮かべて見せる。
「仲良くしてよ。友達少ないんだよ」
「……ああ、そう」
　釈然としない顔で、それでも腑に落ちたように和已は頷いた。この街に来てからのかれを
知る誰もが一笑に伏すだろう言葉を、あっさり信じたようだった。
　嘘など吐いていないのに、気管の奥が何故だかむず痒く痛んだ。
「さくっと信じるのなあ」
「ここで嘘吐く意味が解んねえし。え、嘘なん？」
「本当よ。悲しいことに」
　半乾きの髪を掻きながら答える。解っている。解っているのだ。思い込みだったとしても、
少なくともかれにとっては、町屋和已は疾っくの昔に、出会い頭から屹度――心根の優しい、
美しい人だ。あたり前の事を知り、あたり前のことを信じている。必要の無い嘘も、その場
限りの眼晦ましもまるで意味を成すまい。丸ごと信じているのなら、それはただの事実で
しかない。下手な小細工を弄して、歪むのは虚像でなく実のほうだ。
　夕陽の最後のひとかけがすべり落ちるように沈んだ。
　あとには朱色の帯の名残だけが残された。
　この期に及んで誤魔化し笑いに耐えながら、北原はなぜか母親の言葉を思い出している。
　東京なんか行ったらね――。
　星なんか碌に見えないんだから――。
　――いや結構見えるぞ颯子(さつこ)さん。
　宛先の無い指弾(ツッコミ)を胸中に施して、ほんとうに一切合財諦めることにした。
　この場限りでも。ほんのいっときでも。
　呆れるほどに情けない、幼稚な我儘だったとしても。


「……部室にな。神坂一が放り出してあってな」
「本？」
「おう。懐かしくてぱらぱら捲ったのだよ。そしたらな、街一個破壊しといて、小さな事を
気にしていては大物にはなれない――とか書いてあってな」
「へえー……」
「おれ大物になれねえじゃんな」
「は？」
「べッつにィ――、ちょっと可哀想だけど猫轢かれるとか良くあることじゃん？　って、
出来なかったしなあ」
　随分と取乱した記憶が強くある。灼けつく土瀝青に落ちた短く薄い影。威嚇するような
囂しい蝉の声。あんな必死の形相は、泣き出しそうな空の青は、慥かに北原の中にあって
善いものだった。けれど誰にも、見せるべきものではない。
　埖のように打捨てられた亡骸と一緒に、埋めて忘れてしまえばいいと思った。
　なかったことになれると思った。巧くやれる、筈だったのに、
　この一週間落ちっぱなしよ――。白状するとそれはそれは可笑しそうに笑われた。何だ
そりゃ――。
「無理に決まってんじゃん。この世の終わりみたいな顔してた癖に」
「おまえに言われる筋合いねえよ」
　むっとして睨み返した。公衆の面前で泣き出した人間に言われたくはないものだ。
「何？　キレキャラ？」
「ちッげえよ。俺の何を知っててその断定口調だっつう話。知らんのだろう」
「はあ？　しるわけねえじゃん」
「無茶苦茶だな」
　何だその根拠の無い強気。怒るより呆気に取られながら鉾を収める。
　蜩が鳴いている。
　傾きかけた向日葵の影が夜に溶けていく。
「……本当になあ。知らんのだな」
「しらねえよ。悪いかよ」


「知らなくていい。知らなくていいよ」


　殆ど縋るような気持ちで指を詰めたまま、ぽつりといった。
　指一本、動かせぬほど雁字搦めの繋縛も、
　意志の力をなみなみと湛えた、射るような美しい人の眼眸も、
　少年を已めつつある男に最早安息を齎すことはなかった。
　ただ、この場限りの諦めが、本当にあちら側の人間になど、屹度なり切れはせぬのだと
思い振舞うこのいっときが、
　膝から地面に倒れ伏すような、色鮮やかな安堵をかれに与えた。
　張裂けそうだ。


「必要な事は話すよ」
　この期に及んで誤魔化し笑いを咬み殺しながら、振向いてそう付足した。
　今までどおり居てくれていい。興味が無ければ忘れてもいい。
　時時話を聞いてくれたらそれでいい。
　それだけ知ってくれればいい。
　狐に抓まれたような顔で和已は頷いた。眼に沁むような気持ちで片方を眇めた。
　解っている。解っているのだ。すぐに屹度瞬きをも厭うほどの虚しさが襲い来る。
　肩越しに白く滲む星。見えないこともないんだな。
　立枯れた向日葵。耳に馴染む虫の声。
　ああ夏が、
　短い夏が――。






※音先行、溶明(フェードイン)






　急制動機(ブレーキ)の音がした。
　耳を劈くようなその軋りに、次の束を編もうとしていた和已は弾かれたように振向いた。
　薄汚れた硝子越し、叩きつけるような陽射と蝉の声の中に、憮然と足を止める黒に
近い紺の四輪駆動(セダン)の足許に。
　猫が死んでいた。
　瘠せた小さな猫だった。
　もう無理だ、手遅れだと、一目見て判った。柔らかそうな毛並の、血に染まっていない
処が綿毛のようにふわふわと戦いだ。護謨と重油の匂いに塗れた、恐らくは熱い風だ。
小さな脱殻を脱ぎ捨てて、今しがたそこに生きていた命は陽炎のように立消えてしまった。
　運転席の男が、忌忌しげに顔を歪ませた。
　指の先が、すう、と冷たくなった。
　その時だったろうか。
　ちょうど対角線上にあった大学の、今はもう使われていない裏木戸の支柱を、向こう
側から誰かの手が掴んだ。強引に乗越えて焼けた土瀝青の上に降立つ。
　蹴られた木戸と錆びた蝶番とが、物凄い音を立てた。
　走り出そうとしたところで、矢張りもう動かないだろう猫の姿に眼を留め、少年は足を
止めた。何処から走って来たのだろう。肩で息をしている。
　車が走り出した。腥い風が吹きつけた。
　膝に手をついた少年が、ほんの一瞬、顔を歪めた。
　擬かしいような、疲れきったような、力無い色で引搾るように歪んだ。
　引きずられるようにして、硝子戸にかけた指が外れる。
　片手で汗を拭った少年は、ふう、と掻消えるような無表情を酷く大きな眼に貼付けた。
　そして何故か――。
　笑いを堪えるような顔をした。


　決して広くはない視界を涙が塞いだ。為す術もなく視えぬ眼を凝らした。忘れるわけには
行かないのだと、何故かそんな事を思った。
　懺悔を聞かされているようだ。




　夏が、終わろうとしている。






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御静聴感謝
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何かありましたら
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