※CB
※黒五秒置いて
元来た路線を折返して、未だ朝の体裁を十分に保った駅へと降立った。人気の無い寂れた
駅舎の、薄く紫懸った真鍮色を気に入りの風景のひとつとして瞼の裏に
使える、と、何処かで頷く声がするのだ。そうして集めた幾つもの
束ねては、紙を漉くように歪な絢を生む。北原の知る絵物語の織り方と云うのはそうした
ものだ。罅の入った
――日曜か。
昨日の日付に合わせて来た、日捲りの数字が青かった事を不意に思い出す。そうして漸く、
本当に漸く、一睡もしていないのだと云うつまらない事実に思い至った。道理で疲れている。
人の疎らな、白く
滅多に目にすることのない、この町の朝はそれだけでどことなく優しい。
日曜日には、朝早く、誰もいない道を歩くのが好きだった。その時だけは、世界が迚も
眩しいものに思えた。遮るものなど何もない、晴れた空の下に立てた。――遠い遠い昔話だ。
酷く印象的な場所に、その部屋はあった。開かずの門を出て大通りを左に進み、突当りの
駅を更に左へ折れれば北原の部屋へと続く緩い坂に出る。右に曲がると――聞く処に依れ
ば――件の大きな寺があるそうだ。そうして一体どうした訳か、誰もが当たり前に目に
していながら、進む事など思いも寄らぬ、細い路地が一本、正面に伸びている。それは
煉瓦色の屋根と
持ったしずかの道で――この先にある何の変哲もない鉄筋の二階建ての角部屋に住む人物に
拠って、初めてその存在に気付かされた時には、思わず震えが来るほどの感動を訳もなく
覚えたものだった。ただそこにある、それだけのことを、続けていくのは美しい事だ。
――しかし、御在宅かな。
奇麗な山吹色の扉の前に立ち、その時になって漸く北原はその――
思い当たった。これは問題だ。非常に由由しき問題である。早朝だからと云って油断して
はならない。何せ相手は辛うじてまだ深夜と呼べそうな、実に中途半端な刻限に、来客を
放り出して
しく、帰りを待って一日寝潰したものだが。家中の本と云う本、文字と云う文字を家電の
取説まで
怒鳴りつけられたものだった。理不尽だ。
「ありゃ酷い。酷いです。アレだ、あたしだって淋しかったの、あなたが悪いんじゃないッ
――みたいな」
「人ン家の前で、そういうの、止めてくれる。みたいな」
横合いから凄まじく不機嫌な家主の声がして、おッ――と声を挙げながら振向いた。態と
らしく一音一音瞭り
白い袋を片手に提げた中原は、奇麗な
普通に驚けんのかい」
「酷え」抗議したつもりが、結局最後は笑ってしまった。煩瑣えよ、と袈裟掛けにその申し
立てを斬捨てて、男は
「失礼しました」
鄭重に腰を折り、北原は半歩後ろに退がる。
ながら。本当の悲劇と
ようになってしまった、事の発端は間違いなくこの男だ。自他共に認める押掛け一番弟子で
ある北原は、中原自身が望むと望まざるとに拘らず、現状誰より事情に通じた赤の他人でも
ある筈だった。聞くともなしに耳にして来たその懊悩を前にすれば、北原の葛藤など掠り
傷のようなものである。比べるべくもない話だ。口火を切る気も喪くしてしまう。
場当たり的に辻褄だけ合わせて早早に退散するべく、以前から借りようと目論んでいた
声が掴んで元の場所へと捩込んだ。
「入れ」
え、と眼を瞠る北原の、すっかり
掴んだ。声もなく、扉の向こうへ引摺り込まれる。慌てて脱飛ばした靴が片方扉に挟まって
止まった。何すんですか――と、流石に
そうな顔と眼が合った。
「おまえ、…一遍鏡見た方がええわ」
「鏡っすか？」
ぽかんとした表情で鸚鵡返しに訊返すと、男はふいと視線を外しながら何でもないと
猫の子でも追うように手を振って言った。
「取敢えず
洗面台の前を通った拍子に、
通り越して既に兇悪なご面相だ。俺が巡回の警官だったら間違いなく職質ものだと真顔で
思う。こりゃ酷いっすねえと低く笑いながら部屋に戻ると、それはそれは真摯な声が酷
過ぎると即答した。
「その顔公共電波に載してみいよ。普通に放送事故やで」
「うん。俺が視聴者だったら
「それをな、こんな、生で見せられた俺の身んなれ。そんなん、自分家前に
立っとったらな、
「うん。御迷惑を」
しおしおと頭を下げるとほんまやで、とジャンプが飛んで来た。早売りだ。反射的に受け
取ったは善いが意図が攫めずきょとんとしていると、珍しく
「また部屋荒らされたら適んしな」
それでも読んどけ――と手痛いお達しを戴いた。そんなつもりは毛頭なかったのだが、
結果として地雷に等しいものを掘当ててしまった前科一犯としては、正真正銘ぐうの音も
出ない。温順しく投渡された雑誌を捲りながら寝台に寝転がった。お世辞にも広いとは
云えぬ部屋の中から、音らしい音はすぐに消えた。
「…おまえもなあ」
雑然としているのに生活感のまるでないこの角部屋に、敷詰められた沈黙をまだ少し
「どうせ酒飲むんやったら、飲まれるちゃうけどや――こう、わあッと、なるとこまで
行けたら、楽なんやろうけど、なあ」
「おっかないですねえ。それ。絶対出来ませんねえ」
大袈裟に頸を竦めて、
ような響きを持って如何ともし難い。作り笑い。作り笑いか。片隅で憮然とする現金な
自分がそれでも少し可笑しい。否定しようにも材料がない。
「竹久がな。こう…、もうちょっとなあ、あんま、…そうなあ。思い出って大事じゃん
とか。何とか。言ってたぞ」
「善いっすよそんな、出来ないのに無理して、日本語頑張ろうとせんでも」
付合い悪くて申し訳ない――。言葉を選んでおりますと、頸から看板でも提げているかの
ような覚束ぬ言い回しにまた少し笑った。
北原は、色とりどりの面子に囲まれ過ごす時間が得意ではない。あんなに楽だった筈なのに。
おまえも大概ややこいなあ――と、自分のことより困ったような訛の強い声がした。
視界を覆っていた安い紙の束を、親指でちょいと軽く持上げた、その間隙を縫うように
外の世界を覗き込む。このややこい自分が嫌いじゃないもので――。
「凄い頑丈な
分厚い紙の眼覆を除け、代わりに瞼で
何も映さなくなった昏黒の世界に、両の手首で重石を
いるのか我ながら見当も付かない。
「手を、弛めたら、…一気に反対側まで。戻りそうでな」
指折り数えるような速度で、眠りに落ちていく途中で、少し思い出すものがあった。
そう云えばあれは、サ館の奥の流し場の――。
笑って、笑っていたな――。
どうして忘れていたのだろう。
息を潜め少し笑った。
隣に居たのはその時には名も知らぬあの少女だった。
花曇りを過ぎた午後は細やかな雨に降られていて、ひと月足らずで見慣れたものとなった
あちこち老朽化した錆色の部室で用を済ませた帰り道、校舎脇の自転車置き場に捨てられて
いた白い仔犬はいったいどうしているだろうと朧り思いを馳せていた。飼えるかな、飼える
かも知れないな、そう思って立ち上がりかけた、ちょうどその時だった。独りだというのに
何やかやと賑やかに、仔犬を抱えた竹久が、運動場を突っ切って部室の前に現れたのは。
――あ。
あの犬だ、と思った。起こしかけていた躰を、どうしたものか元に戻した。竹久がばた
ばたと遽しく部室の扉を閉めるのと同時に、対面の棟の蔭から飛び出してきた少女が、
矢張り北原と同じように物陰に蹲み込んで息を吐く。急なこの夕立に降られてのことかと
最初は気にも留めなかったのだ。
がたがたと喧しく何かを蹴散らしながら、来た時と同じように竹久は賑賑しくその場を
後にした。人の言葉など通じそうもない小さな生き物に、それでも甲斐甲斐しく何事か
話しかけながら。心暖まる光景だ。それは確かだったが。
――あの人確か。
十歳までを育ったという福生に理解し難い誇りと愛着を抱いている竹久は、確か独り
暮らしを始めた今、そこに舞戻っている筈だった。通学時間は軽く一時間を超える。犬
など飼える状況だろうか。
埒もない事に頭を巡らせている北原の横で、小さな笑い声がした。
隣を見た。少女が笑っていた。去って行く人に背を向けて。
瞭りと竹久を、拾った仔犬を知っている顔で笑っていた。
ふうん、と思った。
竹久夢志は頭の天辺から足の爪先まで、北原にないものだけで出来ている。そしてその
総てを、取分け生きることに於ける瞬発力、
それは大きな大きな嘘になる。
どうして忘れていたのだろう。――あの時の少女は、和已という名をしていたのだ。
※CB
※黒から
「どうして？」
窓から身を乗り出して待花は問うた。雨木は黙っている。聡明に老いた犬のような、
凪いだ海のような蒼みを湛えた穏やかな眼で。
肩に掛けた鞄はすっかり古惚けている。
待花の記憶が正しいならば、五十年前の昨日、雨木の母親の手で作られたその古惚けた
鞄は、雨木の瘠せた躰の一部のように馴染んで見えて厭だった。
「どうしても行くの？ あなたのお蔭で、私救かったのに。救かってしまったのに、」
「僕のお蔭じゃない。
「それは、」
振絞るような声で、待花はその言葉を遮った。赤い電車が傾きかけた秋の陽射しを吹き
飛ばしながら走って行く。それは、雨木が、あなたが――。
「雨木がそうだから、止まれないから、だからお祖父ちゃんは私を救けてって言ったんじゃ
ない。何処までもいくから、何処までも行ってしまうから、」
――雨木。
――今日の話をするよ。五十年後の今日だ。
――僕には孫娘がいるらしい。とても危ない目に遭うんだ。
――待花と名付けられるそうなんだよ。あの子を、
「……あの子を救けてくれ、」
達生が真顔で言うから――。
迚も断れなかったよと雨木は笑った。
何処までも何処までも歩いていく、雲を掴むように軽い足取りに思いを馳せた。
雨木は止まることの出来ない形をしていた。
生きて、生きて、そのままの姿をただ生きて、こんなところまで歩いてしまった。
「だってそうだろう、」
はじめて、答えのようなものを口にする。果たされた約束。酷く清清しい、誇らしい
気持ちで。
訊かれたことも打明けたこともなかった答えだ。
「僕は行くよ、待花」
「そのために僕は生まれた。ただ死ぬことなんか出来ないよ」
※テープエンド
※中断
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ううむ
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