昔から足は速かった。躰を動かすことにかけても要領が良かったのだろう。他の乗客が
次次振向くのも構わず
なく感じる。急激な気圧の変動に軋む扉に背中を預けるようにして
流石に息が苦しい。ああ、煙草、辞めよう。
生地の薄くなった膝の辺りを両手で掴む。窓に映った姿が余りに小ぢんまりとしていて
笑いが込上げて来た。何て
黄色い電車は危なげな歩幅で線路の上を滑って行く。この鄙びた感じは嫌いではない。
早朝の各駅停車。懐かしさに似た鉛の味。
「――ちょっと、」
不意に腕を掴まれた。物凄い力で引起される。心臓の裏を冷たいものがぞろりと這った。
聞いたことの、強ちないとも言い切れぬ、無造作な声。
――あんた、それ、何処の制服？
北原先生ン家のお兄さんよねえ、と、何処かで見た記憶が無いでもない顔が腕を掴んだ
まま質した。越境の高校に通うかれの纏った、若干奇を衒った感の否めぬ制服が、無個性な
黒と紺の群れの中で酷く眼を惹くものだったのは動かしようのない事実でもある。素性を
ぴたりと言当てられた手前邪険にも出来ず、咽の奥を突上げた悪寒に似た何かを気付かれぬ
よう飲下して、努めて愛想良くも毅然と学校名を告げた。
度の強い――今時鼈甲縁の――眼鏡をかけた、矢鱈と薫り高いその女は、こんな時刻だと
云うのに隙無く装った指先を、漸く北原の二の腕から外し、
頷いた。
頭の天辺から爪先までを
ことはないだろう。
――善い学校行ってるのねえ。
――矢っ張り、
「君、大丈夫？ そこの扉開くよ。具合悪いの？」
気遣わしげな声に我に返った。見ればかれの腕を掴んでいるのは、あの薄鬼魅悪い顔とは
程遠い、四十絡みの人の好さそうな主婦だった。化粧気の無い顔に、
た。飾り気の無い立ち姿に気が
全身からどっと汗が噴出した。熱いような冷たいような、奇妙な汗だ。
「――ありがとうございます。大丈夫です」
「何言ってんの、真っ青よ。小母ちゃん次の駅で降りるから、代わりに座ってなさい」
幼子を叱るような口調で言われ、このひと俺を幾つだと思ってんだ――と、心の片隅の
ほんの僅かな息の吐ける隙間で、可笑しく思いながらもういちど礼を述べた。
言葉通りに程なくして降りて行ったかの女が心配そうに振返るのを、殆ど跪く
ような心地で見送った。御免なさい。許してください。俺はあなたの御厚意を、最低の
形で、穢してしまうところだった、
――お前に言われる筋合いねえぞ。
つい先刻、口を吐いて出た捨て科白が固く閉じた目蓋の裏を横切る。どちらが人として
けれどあの瞬間、北原は本当に本当にそう思ったのだ。意味が判らないのはお互い様だ。
猫が死んだくらいで餓鬼みたいにぼろぼろ泣いていた分際で。そんなものは悲劇とは、
惨劇とは呼べまい。
本当に悲しい事などそうは無いのだと――。
翳の強く落ちた中庭を漫ろ歩きながら、足許に立込める陽炎に曇った
並べた、虚実の曖昧な幾つもの光景が指折り数えられそうに手の中を擦りぬけた。いつも
どこか現実味の無い、酷く脆い、地表。一体全体いつの間に、こんなところまで来れたの
だろう。北原の時間はある時を境に、
した不安は最早、少年を
いまここに居る自分と、あの頃の怯えた少年とが一向に繋がらぬのだ。
眼を醒ませばまた、あの見慣れた天井を仰ぎ、若干奇を衒った感の否めぬ制服を纏って、
判で捺したような道を辿る朝を迎えているのかも知れぬ。何処までが暇潰しに描いた
瀕死の夢で、何処からが本当にある事なのか、不意に見失うときがある。北原自身が妄想だ
何だと露悪趣味に吹聴しては、笑い話にして遣過している、多くの瞬間のことだ。
ほんとうに、――な事など、
埒も無い思考がぐるぐると狭い世界を巡る。
判っている。判っているのだ。推定などでなくあの少女は心根の優しい、美しい人だ。
偶然、妙な形で行き遭ったと云うだけの、赤の他人の作り笑いなど、それと見て取れた
ところで受け流せば善いだけの話なのにだ。
短い路線が終着駅を告げた。
こんなとき向かえる宛てを北原はひとつしか知らなかった。
古惚けた車窓を茫漠と眺めた。何処にでもあるような郊外のうらぶれた景色だ。寝惚けた
色の光が白茶けた町並を覆っている。朝なのか宵なのか、傍目には区別がつかぬ。
晩夏だと云うのに悴む指を組み直した。ああ、煙草、本当に辞めよう。
※黒落ち
※
『さすらい』
監督・脚本 上田便箋
ある朝
差したその男は、待花が窓から顔を出すなり、近所中に響き渡りそうな大声で嬉しそうに
彼女を呼び立てた。
「あなたが待花さんですね。懐かしいなあ。面差しがおじいさんにそっくりだ。」
一昨年の夏に息を引き取った祖父のことを、何故こんな怪しい風体の男が知っているの
だろうと不思議に思ったが、目を白黒させる待花を他所に、どういうわけだか男は大きな
黒い傘を叮嚀に畳みながらにっこりと笑った。
「ぼくは
よろしく。」
はあ、と、狐につままれたような顔で待花はどうにかそれだけを答えた。この国の春の
緑のような、深い淡い色合いの
懐こい顔の男は、その名の音に相応しい掴み処のない声で、
ははあ、と、何故だか笑い返してきた。
※白明け
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うわあなんかよけいごめんなさい(…)
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