お早う、と、透通ったか細い声で言って、菊名は奇麗な灰白色の薄手のニットの長すぎる
袖を揺らした。年相応に可愛い子には目のない石川も、不思議と菊名には眼を惹かれる
ことはなかった。奇麗な子だと思わないではないのだが、何だかそれは雲ひとつないのに
何処か翳りのある深い秋の青空を見上げた時に似て、石川の中をすうと通り過ぎてしまう
些細やかな揺らぎに過ぎなかった。
　また、と、寝台(ベッド)から身を起こしながら少し笑う。「宮沢の服着てんよ」
　文化祭と前後して、菊名と宮沢が何だか面白そうな事になっていると云う情報だけは、
噂好きの同級生の口から小耳に挟んでいた。軽口のつもりで口にした適当な言葉に、菊名は
生真面目にそうなの、と頷く。
「私は全然平気なのに、宮沢君が着ろよって言うの。寒そうだから着てよってすぐ言うのよ」
　変わった人だとでも言いたげな口調に、石川は腹を抱えて笑い出したい衝動を堪えながら
いい奴やん、と返した。また一方では、あいつもてよんのに報われんなあ――と、まるで
謂れのない優越感を噛み殺す。実際のところ宮沢がどれだけ報われなかろうが、石川が
勝利の感慨に浸るような要素は何ひとつ無いのだが。
「でもちょっと興趣(センス)無いよな。もっと可愛い系の服のが似合うやんね、菊名は」
「それじゃ宮沢君が着れないでしょう」
　石川君も変な事言うのね――と、一年女子きっての変わり者と評判の菊名に真顔で言われ
絶句する。思わず遠い目をして窓の外を眺めた。広い中庭を枯葉が寂しく舞散って、舞台
装置も完璧だ。
「石川君？　大丈夫？」
「ん、大丈夫、何でもない…傷は浅いよ」
「怪我してるの？」
「い、いや」
　軽い気持ちで飛ばした与太を本気に取られて少し慌てた。冗談冗談、と狐に摘まれた
ような顔の菊名に善く見えるように手を振った。宮沢の苦労が忍ばれて、内心密かに頭が
下がる思いがする。ごめん宮沢、頑張ってくれ。
　少しの沈黙の後、菊名は長すぎる袖を指先で持って繁繁と見た。どこか居心地悪そうな、
何かを失くしたような、不思議な顔をしていた。
「…似合わないかな」
「似合わんこともないけどねえ。もっと似合う服あるのになって、そういう話」
　菊名は難しい子だ。もしや地雷を踏んだかと、あまり遣えない気を遣った石川が砕けた声で
やんわり否定すると、愈愈(いよいよ)困った顔をするので俺の方が困ると匙を投げそうになる。何だ。
どうした。
「…似合うなって、言ってたの」
　ぽつり、と、酷く心許無げに菊名は呟いた。
　誰が――と、尋ねることは出来なかった。
　宮沢自身の発言でないことだけは判った。訳もなく判っていた。菊名が宮沢の話をする時、
かの女の水彩のように色味の薄い声は、呼吸をするのと同じようにすんなりと響く。そう
する事が当然であるかのようにするりと石川の、恐らくは誰の耳にも届く。間違っても
こんな、迷子になった幼子が覚束ぬ自分の在所を諳(そらん)じてみるように、不安げな、けれど酷く
大事そうな、縋るような翳りをもつことはない。
「菊名は、宮沢の服が、善く似合うなって」
　言ってたの――。
　無意識の内に、言葉のぬしのそれを真似ていたのだろう――ふ、に強拍(アクセント)を置く耳慣れた
発音で服と紡いで、菊名は緩(ゆっく)り瞬きをした。淡仄(うっすら)と輪廓の攫めかけたその答を、石川は
ふうん、と気のない声で罔(な)きものにした。それはかれの、眼に触れて善いものでない。そうと
判れば覘(み)たくもない。
「みんな元気やろ？」
　どうせ、と、拗ねたような響きを多めに乗せて呟いた。
　顔を擡(あ)げた菊名は、折れそうな頸でこっくりと頷いた。
「元気よ。みんな」
　藤岡さんも元気よ――。
　怯気(びく)りとした。
　いとも容易く投げ渡された名前にどうして善いか判らなくなる。哀しい顔でもするが善い
のか。そんな権利があるだろうか。
　何時の頃からか。いつでも微かに息が苦しい。
「…もしかして、知らんの」
「何を？」
「うん、だから、芙美ちゃんはもう、さあ、」
　歯痒そうに笑いを作りかけた石川を、知ってるわ、と云う小さな声が遮った。
「知ってるわ。だから教えたの、元気よって」
　でも――。
　哀しそうにしてるわ――。
　耳に痛むほど静かな声で、菊名は淡淡とそこまでを言った。
　沈黙になるのだけは耐えられそうになかった。
　黒目勝ちの、大きな眼を眇めて、石川はぐしゃりと笑った。
「菊ちゃん、それ、」
　元気って、言わんよ――。






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まだ続きます(…)
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