「愛する人よ」








 学生会館の一階にある小さな喫茶室(ラウンジ)は、以下にも学生食堂然とした余所より遥かに閑静で
少し気に入っている。取分けこの季節――新緑も眩い春の午後には、それなりに手入れ
された不揃いな植込みも和らいだ日差しに気持ち良さげに羽根を伸ばしているかのようで、
窓越し揺れるその風景は沈みがちな静の心を和ませた。
 程良く冷めた――静は猫舌だ――紅茶をひと口、そっと口に含む。
 強い薫りがひろがった。
 ――美味しい。
 ほう、と小さく息を吐く。一日のうち幾度かはそれでも訪れる、些細(ささ)やかな幸せ。
 (けむ)るような弱い笑みが、常ならば勝気に引結ばれた薄い丹花(くちびる)を彩った。
「駄目駄目」
 微かな騒めきを食破って、子どもの落書のような声がした。決して(まず)い声ではないのに、
人の神経を逆撫でするかのような胡乱な口調が凡てを台無しにして尚余りある不快な空気を
醸している。勿体ないわ、と思わされた(はら)立たしさのようなものも手伝って、必要以上に
きつい眼眸(まなざし)で静は声のする方を屹度(きっと)睨めつけた。
「――またあなたなの」
「です」
 触れれば切れそうな棘棘しい言葉を、待ってましたと言わんばかりに正面の席を陣取った
顔がにんまりと笑った。食み出しそうな表情の描き方はまだ仇気ない。この春入ったばかり
の一年生――(たし)か北原、と云ったか。
 ふ、ともへ、ともつかぬ不明瞭な発声で小刻みに笑うと、北原はそれは大きな、どこか
卑屈な黒い眸をくるりと上げて静を見上げた。矢鱈と嬉しそうだ。綴紐を弛めたような笑い
顔に理由もなくぞおっとした。苛惜(あたら)容姿が整っている分余計に気色が悪い。
「静さんはあ、」
「その呼び方は止めなさい」
 冷ややかな声にぴしゃりと撥ねつけられた少年は、矢張り滑舌の悪い口調でわあ怒ってる
怒ってるゥ――とそれはもう嬉しそうに不可解な歓声を挙げた。巫山戯(ふざけ)ているとしか思えぬ
その反応に、静はこれ以上ないと云う程冷冷(ひえびえ)とした一瞥を以て応じたが、跳返されて来た
のは焦点の絶妙に(ぼや)けた夢見るような眼眸で、却って気分が(わる)くなっただけだった。処置
なし、だ。
「いい加減になさい。今の私にあなたを相手にする余裕は無いの。いいえ、あったってして
やるもんですか」
「何それ、」
 憎憎しげな言葉を投げつけると、北原は心外そうに締まりのない口許を尖らせた。見損
なわないでよ――。
「相手にしろなんて言ってないでしょ。そんな趣味はないっすから。寧ろガン無視して
ください!」
「巫山戯ないで!」
 白い、細い、指で(つる)を支えていた、紅茶のカップを力任せに受皿の上に叩きつけた。
悲鳴にも似た繊細な音が鼓膜に突刺さって酷く不快だ。元元がそれ程寛容に出来ている
わけでもない。怒りに任せて声を荒げる静の、仄かに紅い眼の縁辺りを、思いきり歪めた
口許を、瞬きもせず凝眸(みつめ)めながら北原はうっとりと笑った。超本気――。
 先刻(さっき)とは比べ物にならぬほどの悪寒に襲われた静は、口を閉ざし黙り込む。ほんの一瞬
物言いたげに(わなな)いた、茜色の口唇の動きひとつ、余さず吸い取りそうな、少年の眼は只管(ひたすら)
黒く大きい。真直ぐに、何処か別の世界を向いている。そして矢張り酷く卑屈だ。
「静さんは、」
 奇麗だねえ――。溜息を吐くように洩らして、頬杖を突いた北原は嬉しくて堪らないと
云った顔で笑った。寒気がする。些細(ちっ)とも褒められた気がしなかった。
「あなたに喜ばれる謂れなんかこれっぽっちもないわ」
「そうそうそうその調子」
 聞いているのかいないのか、満足そうに頷くこと頻り――北原はまたふふふふふ、と
小刻みに笑って頸を傾げた。宮崎駿の映画か何かにこんなの(、、、、)居たわ――と真顔で思う。
見た目はどうあれ、逆立ちしたってあんな可愛げのある生き物にはなれなそうだが。
「ねえ静さん」
「その呼び方は止めなさいったら!」
「止めないよそんな、勿体ない。あのねえ静さん、もうすぐしたら谷崎さんが来るからね」
「…何ですって?」
 愕然とした。思わず言葉を失くし真直ぐにその顔を見てしまう。相変わらず北原はにこ
にこと笑っている。何がそんなに嬉しいものか、静には小指の爪の甘皮ほども判らぬ。
知りたくもない。
「呼んだの? ここへ」
「うん。今メール打った」
「誰が呼んでいいと言ったの」
「静さんにじゃないよ。谷崎さんが言ってたですよ」
 俺にまで頼むなんて、余っ程切羽詰ってるんだねえ――と、北原は頬杖を突く手を替え
ながら違う笑い方をした。どことなく尖って、陰湿な、毒を含んだ凄絶な笑みだ。直ぐに
消えたその表情を、静はそれでも暫くの間忘れることはないだろう。
 静さん俺はね――。伏目がちに卓子(テーブル)の上で組み合わせた手元を見下ろし、北原は酷く
静かな口調で呟いた。ため息を吐くように。
「俺はねえ、静さん好きだよ。ほんっと好きだからねえ」
 随分と屈託なく、まるで刃でも突きつけるようにすらりと向けられた言葉は、どこにも
瑕をつけずに静の手の中を通り過ぎていく。
 手を、
 伸ばすのは厭だ。
 伸ばされるならまだ耐えられる。振払えば善いだけの話だ。
 手に取るのだけは耐えられぬ。心からそう思うのに、掴み損ねたような気鬱な色がどこから
ともなく吹込んで爪先を(かす)める。
 だからねえ、と、小さく瞬きをしたどこか悲愴な大きくて黒い二つの眼は、だから――で
全く繋がらない――少なくとも静にとっては――言葉をつけて薄っぺらな笑みを寄越した。
「だからねえ、俺とは全然関係ないところで、静さんは最高に幸せじゃないと駄目よ」
 こんな処に、
 居たら駄目よ――。
 駄目駄目、と、最初と同じ子どもの落書染みた声がした。
 紐解いたような掴み所のない笑みで、少年はまた、小刻みに笑う。
 矢っ張り気持ちが悪いわ――と呆れて、勿体無い、と思わされた悔しさのようなものに、
 気付かれないように、優雅に微笑み返してやった。
 屹度一番深く刺さると、思ったからだ。




 



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気持ち悪いのもチャームポイントです。<真顔
img:螺旋階段
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