無防備に扉を開けて覗いた白い顔が、二秒と少し驚いて、(ほど)けるように笑った。
 急に来て、誰も居らんかったらどうするん――。
 おまえが言うかと可笑しくなった。
 外は雪だ。何処か暖かい。




「 オ ブ ラ ー ト 」




「手ぶら?」
「うん」
「その恰好で来たん」
 雪の降る中、解くための旅装もない有様に呆れた。そんな恰好で、繰返すと急に実感が
湧いて来る。背中から凭れかかっていた飾棚(キャビネット)に、支えるでもなく添えていた手を離した。
静かに躰を起こす。
 そのまま思いきり、姿勢の悪い背中を突飛ばした。
 声もなく頭から枕に倒れ込んだ男は、咬みつきそうな顔をしながら振向きざまに飛起きた。
おい――と何か言いかけるのを遮って、寝なさいと強く(いいつ)ける。尚も何か言いたげな顔に
毛布を被せた上から飛乗ってやった。真上から見下ろす。開いた口が塞がらぬと云った
顔だ。
「寝なさい。もう、善いから」
 ひっどい顔、と、思いきり眉を顰める。おまえが酷いわ――と諦めたように投遣りに
返された。
 馬鹿な子。母のように、姉のように、また友人のように英菜はため息を吐く。
 馬鹿な子。ただ強ければそれだけが、偉いのだとでも言うのだろうか。
「疲れたでしょう」
 熱を計る時のように、掌を額に押当ててみた。
 瞼を閉じて緩りと、男は長い息を吐く。
 疲れたな。
 疲れた。
 轣轆(がらがら)の声が二度もいうので、
 代りに泣きたくなってしまった。






 硝子が割れる音に怯気(びく)りとする。級友(クラスメイト)の誰にも、それどころか母親にさえ話したことは
なかったが――中学二年の時、あのテラスハウスに棲みついて程無く、見知らぬ壮年の男に
雨縁(ベランダ)の窓を割られた事がある。蓋を開けてみれば、少なからず時代錯誤な思想に気触れた
只の酔漢(よっぱらい)の仕業と云うことで片が付いたが――その時は本当に脚が竦んだ。大概の大人は
英菜のような出自の小娘に優しくなどはなく、母が時折連れられて出て行く酒臭い男たち
を目にするだに、そんなことは十分解っていて――何をされても小さく眉を顰めるだけで
やり過ごす技術は既に身についていたにも拘らず、どうしても、あの音にだけは慣れる
ことが出来ない。
 小さな躰。些細(ちっ)とも育たなかった細い腕。
 英菜は自分のそうした部品(パーツ)があまり気に入ってはいない。
 きつね色の背凭れに背中を預けて、青みがかった濃い灰色の制服の布地に驚いた。思わず
繁繁と、袖口や(プリーツ)を眺めてしまう。周り中が似たり寄ったりの恰好をしているので、夢の
中に居るのだと判る。悲しい夢になるような気がした。中学一年の夏。隣の教室。
 狼狽え声を張上げる担任教師の裏返った声が、黒板の向こうに聞こえる。静かに、席着き
なさい――、制止の言葉を袖にして、ふらりと廊下に立ってみた。巫山戯(ふざけ)ている間に過って
掃除用具の戸棚(ロッカー)を倒してしまったらしい。主犯の少年の名には憶えがあった。偶偶(たまたま)側に居て
巻込まれた側の少年の方を、その時はまだ、知らなかった。
 手の甲を浅く切っただけで、仔猫のようにぴいぴい(、、、、)泣喚く背の高い少年――学年でも指
折りの小心者の問題児――に付添って教室を出て来た教師は、矢張り怪我をしたらしい
右手を左手で押さえながら立っている別の少年を振向き、大丈夫やね――と突然(いきなり)言った。
 何の、話をしているのか、英菜には解らなかった。
 ここからでも瞭りと見える。直には触れぬようにしながら、空いた手で傷口を隠す姿勢の
悪い背中。奇妙に血の気を失った右中指の、すぐ上辺りから鉤裂のような真赫な皮下組織が
覗いている。大丈夫――のようには(とて)も見えなかった。痛ってえ――と、笑みすら滲ませた
声でぼやきながら、少年はそれでも自分の脚で、覚束ぬ足取りで歩き始めた。
 大丈夫やね――。
 何の、話をしているのか、英菜には解らなかった。
 右の中指は折れていて、少し歪んでしまっている。


 眼を開けた。矢張り悲しい夢だった。
 誰にともなく、だから言ったのに――と呟いてみる。
 寂しかった。寂しくてたまらなかった。
 蓋をするように、腕の中にあるものを強く抱いた。
 疲れきったように眠る顔は眼を醒ます素振りもない。
 このまま()きなければいい。瞭りとそう、思った。
 心も傷を負うという。それなら血も流れるだろう。
 包帯を巻いて、石膏(ギプス)で固めて、支えなければ歩けない怪我もある。
 この子はそんな怪我でも、歩こうとするから、離れているのが本当は酷く厭だ。


 立とうとして、
 立とうとして、
 立って歩こうとして、


 その痛さに、笑いを滲ませた声でしか、ものも言えずにいる。


 頑張れって言ってくれ、冗談のように言って矢っ張り笑った。
 何の、話をしているのか、英菜には解らなかった。
 包帯を巻いて、石膏で固めて、支えればまだ歩けると、当然のように思う人に向かって、
 どうしてそんな酷い事が言えるだろう。


 言えないと、突撥ねるように答えた。
 小さな躰。些細とも育たなかった細い腕。
 そんなものにしか縋ることも出来ずに、そうして泣いているくせに。


「…泣き虫、」


 小さく声を投げてみた。
 煩瑣い、と、いつもの調子で返って来ないことに安堵した。
 どこにある世界も、英菜のような出自の小娘に優しくなどはなく、何をされても小さく
眉を顰めるだけでやり過ごす術など既に身についていたにも拘らず、
 折れた指に直截触れぬようにして隠しながら、あんな時ですら、ただ傍観にきた名前も
顔も知らぬ英菜に向かってあの時少年は言った。
 ごめん、通してな――。
 痛みに少し強張ってはいたけれど、(おど)けたような、とても優しい声だった。
 あんなのは、
 あんなのはもう沢山だ。


 頑張れって言ってくれ、冗談のように言って矢っ張り笑った。
 どうしてそんな酷い事が言えるだろう。
 馬鹿な子。母のように、姉のように、また友人のように英菜はため息を吐く。
 馬鹿な子。ただ強ければそれだけが、偉いのだとでも言うのだろうか。


 疲れきったように眠る顔が、抱えた腕の中で微かに身動ぎをした。
 逃げよう、と、頷いて貰えそうにない思いつきを小さく投げてみる。
 答はなかった。頷けるわけがないと最初から判っていた。
 眼が醒めたら、もう一度ちゃんと言ってやろうと少し笑う。
 どうせまた泣くんやわ、と、
 ほんの少しだけ幸せに思った。


 外は雪だ。酷く寒い。
 







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img:雅楽
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