「あの家に帰ろう」









 冬は、
 厭だ、というようなことを、気がついたら呟いていたのだという顔をして男はざくざくと
霜を踏みながら歩いている。
 傍らを歩く別の男はむっとしたような顔をしようとしたが、冷たい風に強張る頬では
それすら上手く叶わぬ。
 どうして、と云う問いに、
 寒い、と短い声が答えた。
 答えながら男は思うのだ。すぐ前をゆく年少の友人が、この真白い(何と使い古された
修辞だ!)季節に一方ならぬ思いを寄せていることを、少なくとも自分は、知っている。
聞くともなしに聞いた風の噂などではない。直截に、この耳で、否定しようもなく(はっき)りと
聞き知っているのだ。
 その上で抑え難く、これ程までに容易く、ただ寒いと云うだけの理由で自分は冬を嫌い
だと言う。
 罪のようには感じなかった。ただ漠然と、隅のほうが欠けたような、鈍い痺れにも似た
冷たさを感じた。
 俺はこいつと居ないほうが善いのかもな。
 (ぼんや)りとそんなことを思った。
 誰かが言った。
 おまえは独りでも歩けるんだろうと言った。


 ほんとうに独りで歩けぬ者が、一体何処に居ると云うのだ。


 ほなな、と、矢張り短い言葉を投げて男は家に向かえもしない角を曲がった。
 多分、それが、長すぎる散策の始まりだった。誰の所為でもない。ただ無理だ、と、酷く
自然に思った。悟った――と云う方がより精確になるかも知れぬ。
 寒そうな声が、うん、気をつけて、と言ってくれた。
 ありがとうと答えた。


 薄暗い角の向こうに消えた背中を朧りと眺める。冬は――かれ自身、言ってしまえば
好きではなかった。けれど寒いから、そんな理由で厭われるのも、理不尽なもののように
感じた。
 ――でも、誰にも。
 強制する権利は無いのにな、と思った。少し寂しくなった。
 かちかちに冷え固まった空気がきりきりと肺の薄い壁に突刺さるようで、未だに少し
びくびくとする。けれど、とても澄んでいる気がして、東京のそれなど生まれ育ったあの
冬の道のうつくしさに比べればそれこそ夢物語の一歩手前と善く、善く知ってはいたのだ
けれど――それでも澄んでいる気がして、心なしか深く息をしてみる。
 冬は、
 未だに上手く説明することが出来ない。
 さくりさくりと靴の裏側で霜柱を踏(しだ)く。
 肺が沁みるように痛んで、未だに少し怯気りとする。
 それでも、


 それ程簡単に、人は命を落としたりはしないものだ。
 あんなに簡単に、


 雪が降ったからもう春だなんて、怪訝(おか)しなことを言う人が曲がって消えた角の(くらがり)を力無く
眼で追う。
 見上げた細い血の管のような、冬枯れた枝には蕾の影すら見て取れぬ。
 ――静ちゃんがね。
 背中を向けて葱を刻みながら、ぽつりと芙美が言った。
 ――谷崎君は高校の時亡くなった友達のことをいつまで経っても忘れないんだって、
 ――止めようよ。そういう話。
 思いがけず口を吐いて出た強い言葉に自分が一番驚いた。罅が入ったような顔で、少し
遅れて芙美が振向く。
 あなたがそれをいうの、と、眼の奥が読めたけれど見ないふりをした。
 ――俺谷崎からそんなん聞いたことないし。
 ――こんな風に聞いたら悪いし。
 へらりと箍を緩めるような柔い笑みを覗かせてみた。
 傷ついたような笑顔も見ないふりをした。


 人が生きていくのに、
 必要なのは水と、酸素と、
 十何種類かの養分だ。


 雪の路を踏締めながら思う。
 人を傷つけるように、自分自身に斬りつけるように、強く思う。


 あんたにそんなもん要らないんでしょ、と、言った。
 言ってしまった。
 疲れても、脚が痛んでも、歩ける奴は歩けとよ、
 本当に立っていられなくなるまで、歩けないとは言わない人に言ってしまった。
 知って、いたのに。


 冬枯れた枝には蕾の影すら見て取れぬ。
 今や瞭りと悔やんでいる。
 どんなにかそれが事実と書かれた白い布を奇麗に射抜くものでも、
 言ってはいけないこともあるのに。


 ――谷崎は。
 誰かに話せるんだなあ、と、薄暗くなっていく空を見上げて白い息を吐く。
 冬の空。
 帰り道。
 手の中は空だ。
 空っぽだ。


 冬は――。
 未だに上手く説明することが出来ない。


「…伊藤はさ、」


 殆ど初めて、その名のぬしが息をしなくなって初めて、
 名前を呼んだ気がした。
 伊藤はさ――。


「どうでもいいか、そんなこと」


 自嘲気味に嘯いて、本当に言いたかったことを頭の中から追い出した。
 楽しかった?
 明日は何がしたかった?
 あの頃何になりたかった?
 もしあの日会えたら、


 ――俺をまた許してくれてた?


 泣いても喚いても答はない。
 二度と声を聞くことも出来ない。
 何を。
 生きている、生きていく芙美に、


 何を、
 何を話せば。


 さくりさくりと靴の裏側で霜柱を踏拉く。
 肺が沁みるように痛んで、未だに少し怯気りとする。
 それでも、


 それ程簡単に、人は消えたりしないものだ。
 信じていた。殆ど抗い難い程の味気無さで。


「明日謝ろう。うん、そうしよう」


 場違いに明るい声で独りごちて、早足に家路を辿る。
 家には屹度芙美が待って居るから、暖かいものを買って帰ろう。
 一緒に食べよう。
 無駄な事だって大事だって、
 思いながら甘いものでも食べよう。
 美味しかったら明日、谷崎にも分けてやろう。勿論、つい今しがた妙な別れ方をした
あの難しい人にも。
 よおし、と、泣きそうな顔を無理矢理綻ばせて――、石川は足場の悪い道を、できるだけ
軽い足取りで走り始めた。


 かれが石川達の前から姿を消したのは、恐らくはその翌日のことだった。






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タイミング最悪の男。
お互いにね。
img:Sky Ruins
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