註:十八歳以上推奨・多少血腥い表現有















「…逆上(のぼ)(あが)るな、」
 押殺した声は、先んじて浴びせかけられた冷水より更に研がれた冷たさをしていた。
 徒でさえ強すぎる眼のその男は、茫然と座り込んだままの宮沢を、射掛けるような眼眸(まなざし)で 見た。
 そして打捨てるように背を向けた。
「殴る価値も無えな」





群 れ




「おい、谷崎! 待てよッ」
「断る」
 後を追う宮沢の罅割れた声を、ばっさり()り落として谷崎は更に歩を速めた。背を伸ばし 胸を張り必要以上に緊緊(きびきび)と歩くその姿は、相変わらず癇に障るほど姿佳く宮沢の視界を穿つ。 おれは何たってこいつを、こんなに必死になって、
「何か勘違いしてんぞ、おま、」
「勘違いだァ? 阿呆かッ! 凡ての対話は遍く勘違いの上に成立するもんだ! 相互理解 なんぞ所詮砂上の楼閣だろうがッ」
 何度言わせんだ甘ったれんなッ――と背中越し怒鳴りつけられ、返す言葉も無く立ち(つく)す。 一度だけこちらを顧みた双眸は、それこそ肌を裂くようで愈愈(いよいよ)二の句が告げなく なる。
「童話じゃない小説だ、だァ? (ふざ)けるな。一旦個人の脳を出て文章化されたものに貴賤は ねえ! 凡て等価とするべきだ! 語彙が豊富だから何だ? 美文だから何だってんだ!  そんなもんで価値が決まるかッ」
 一息に捲し立てた谷崎は、微かに乱れた呼吸を叮嚀に鎮めて踵を返す。見た事も聞いた 事もない程、冷ややかな背中を此方に向けて。
「平仮名二文字で世界を著した文学者だって居るんだ。文字の力を嘗めるんじゃねえ。 ――けどな、」
 こんなもん俺の独断と偏見だッ、と、清清しいほど堂堂と言い放ち、男は肩に引っ掛けて いた黒い襯衣(シャツ)に袖を通した。
仮令(たとえ)おれがこの信条に全人生懸けていたとしてもだッ、そんなもんはおれ以外の凡ての 人間にとって屑かも知れん。それぐらいの覚悟もなくて何かを語れると思うな。懸命に 語れば必ず人を動かせると思うな。一人でも動かす事が出来たなら、それは、――奇蹟だ、」
 囁くような声がそう結んで消えた。
 すぐ傍にある筈の影が遠くなって行く。
 違う、違う、違うんだ、
 膝に手を撞いてしまいそうだ――。






 月が嫌いだ。
 いつの頃からか、あの空に(あな)を開けたような黄ばんだ白い点が忌まわしいものに見えて 仕方ない。
 少年は家路を辿る。取澄ました宵闇は却って押しつけがましく、少し先の視界を鬱蒼と 阻む。酷く塞いだ。月が()ている。
 ――走ろう。
 (あお)みがかった足許や傍らの混凝土(コンクリート)に、藻屑のようなくらやみが覆い被さるようにして 生えている。遠くをバイクの(あしおと)だけが横切る。がちゃがちゃと背負った四角い革の箱を 鳴らして、跳ぶようにその坂を下り始める。時計は邪魔なので着けたことがない。だから 時間は判らない。
 人に言えぬような記憶ばかりを、あの月はいつも視ている。最上階の音楽室から、非常 階段を一段飛ばしで駆降りる途中に奇妙な光景を眼にした。撒散らされた黄色い布が (くさむら)這蹲(はいつくば)って尚その在り処を主張している。あんなところに一体なにがあるのだろう。 侃侃(かんかん)警鐘(サイレン)のような沓音が谺して、つい先刻(さっき)まで楽しくて走っていたのを忘れそうになる。 茫漠(ぼんやり)と不快だ。等間隔にみしりと聳えた黒い鉄柵を持っていた笛で叩いて紛らわす。矢張り 侃侃という。紛らわす。ふと見上げると月が出ていた。泥塗れの黄色い布。開けて。喰散ら かしたあとのように。真赫な雲の(あぎと)の中に。
 月が。
 不意に(くらがり)の奥から、空に浮かぶそれと同じ色をした右腕がにゅうと突出て宙を掻く。溺れ ているような、助けを求めているかのようなその手指は、みずからの上に腹這いになった 真黒な希望に恐らくは決して爪を立てまいとしていたに違いない。薄皮一枚隔てた、その 意味だけは(うっす)らと判る。嘔気がした。膚がぼつぼつと粟立つ。  微かな呻き声がした。
 もっとずっと幼い頃、家のすぐ裏手に祖父の実家があった。裏手と云うより殆ど地続き だったのかも知れぬ。単に古暈けた記憶と云うだけでなく、努めて思い出さぬようにして いた所為もあって一向に瞭りとせぬ。
 少年はそこで、猫を殺した。精確には遠からずやって来るはずだった、その死を早めた。 空寒いほど晴れた五月の日曜日で、その家の庭には白茶けた井戸と、皺枯れた柿の木が あった。年老いたその枝は何故だか肌触りよく、少年は暇に飽かしては意味もなく善く 登った。
 家には、大きな蔵があった。昼日中でもひいやりと薄暗いその塒に、いつしか猫の母子が 棲みついていた。白地に灰色の縞の入った愛嬌のある顔立ちの母猫に、善く似た小さな 三匹の仔猫と、一匹だけ美事に真黒な、艶艶した毛並の痩せた仔猫が寄添っていた。
 少年がその終焉に手を貸したのは黒い仔猫だ。随分と仇気ない顔をした母猫は、矢張り 歳若すぎる春を迎えてしまったものらしく、梅雨に差しかかる頃に突如(いきなり)子の世話をしなく なった。母に見向きもされなくなった子どもらは刻一刻と弱って行き、力ないものから 死んでいった。まだ悲しくはなかった。
 最後に残ったその黒い猫は、がりがりに痩せ衰え、徒でさえ肋の浮いた体に腹だけが 丸丸と肥え膨らんでただ異様だった。うつらうつらとその薄金色(パール)の眼を閉じたり開いたり しながら、井戸端の麗らかな金色の陽射しの中に、ぐたりとその身を横たえ弱弱しく荒い 息をしていた。
 井戸の傍には、錆びた蛇口があった。
 なぜそんなことをしたのか少年にはいまだに思い出すことが出来ない。
 ただ――今にもその不揃いな息を止めてしまいそうな黒く歪んだ塊が、一端に猫らしく 水に驚き悲鳴を挙げるその姿を――都合の良い解釈を求めるならば、生きているところ を――見たかったのだとでも言っておこうか。
 同じ詭弁ならば奇麗なものの方が善い。


 なぜそんなことをしたのか少年にはいまだに思い出すことが出来ない。


 小さなてのひらにも容易く(つか)めるほど痩せ曝えたからだを、蛇口の下にそっと設える。
 そのまま思い切り水を浴びせた。
 渇いて毛羽立ったそこに井戸の良く冷えた、恐らくは錆臭い水が容赦なく打撒けられた。 びちゃびちゃと音がした。飛散る白濁した、または赤茶けた水の触れればねばつきそうな 飛沫、あの音の味気ない響きは今でも善く憶えている。
 猫は――ぴくりともしなかった。
 相変わらず、少年が水を浴びせかけるその前と同じように、べたりと身を横たえたまま、 細い、荒い息をしていた。
 毛並は濡れそぼって、萎えた鳩のように仄ら苔生した混凝土に撓垂れている。

 どうしてだろう。
 いきなりぞおっとした。
 振り仰いだ空寒いほど青い空には、


 白い月が茫漠と歪んでいた。


 少年は愈愈駆出した。あのときと同じように、脇目も振らず。
 あの日、到頭瞼を鎖してしまった黒いぬけがらを抱え、凡てを振切るようにして鮮やかな 緑の庭を転ぶように駆抜けた。お母さん、向かいの猫が死にそう、母親の顔を見るなり 咄嗟に口を吐いて出た言葉は嘘ではないが真実でもなかった。
 がくがくと膝がえた。
 立っていられなくなりそうだった。
 黒猫は死んだ。


 泣きじゃくる少年を大人達は心根の優しい、善良な子供としてただ慰めた。
 少年のしたことを知っているのは、この世界にただ、月だけだった。




 あの時も、あの時も、どんな時でも月が視ている。誰にも知られたくない記憶ばかりを。
 少年は走る。ただ走る。息を切らして転がるように苔生した闇の坂を駆下りる。
 梦の中に微朦朧(うすぼんやり)と浮かんだ自動販売機の前で脚を止めた。ぜいぜいと荒い呼吸音が耳に 障る。一瞬で夜気に冷やされた汗が領脚の辺りをふうと撫でる。顔を()げればふと、――右 端の列の(ボタン)のすぐ下辺りに、何か白いものが貼られているのに気付く。


 つき ほし


 小さく悲鳴を挙げた。縺れる脚と記憶でまた走り出す。心臓が破れそうに痛む。月。月。
月。月。何所までも月。通り抜けられると思って飛込んだ袋小路の、突き当りに聳える古い 大きな(いえ)の表札に有島とある。清一朗、朋絵、郁子、月が六つも黒黒とつややかな眼を 確乎(しっか)りと()けてそこに居る。弾かれたように踵を返し飛出した通りに迫出した、松の木の 肥り(じし)の枝振りに、腰を降ろした黒い猫がふたつの目映い月で凝乎(じっ)とこちらを見下ろして いる。断罪の色に似た透通る金の眼眸の、真中辺りを割いた黒い月が縦に二つ並んでいる。 走っても走っても空の眼は追ってくる。水溜りにその(たね)を落として。夜に向かい起つ鏡と云う 鏡をその朧げな輝きで支配して。
 助けて。
 助けて。
 誰かあのこを。
 おれが殺してしまったあのこをおれの手から助け出して。




 骨の窪みに纏わりついた闇ごと祓い落とすように撥起きた。見慣れた部屋をあの苔生した 碧い闇がすみずみまで染抜いていて怯気りとする。みずみずしい白金(プラチナ)の光を正方形の窓の 枠組(サッシ)が懸命に拒んでいる。この光は月のあかりだ。潮を牽き夜を食みか細い手指の先でこの 惑星(ほし)外皮(はだ)(まさぐ)る、まるで生きているかのようなあの衛星(ほし)の飛沫だ。
 慄然(ぞっ)とした。
 堪らなく(おぞ)ましかった。
 あれは生きている。
 いつでもおれを視ている。
 ぬるりとつややかなあの眸で。


 くっきりと骨筋の浮出た右手に鳥口(ペン)を握り締める。がくがくと(ふる)えるそれを逆様(はんたい)の手で 押さえつけてかたく蓋をした。塗り込めるようにがりがりと文字を綴る。生きていく黒猫の ものがたりを。生きて、生きて、悔い無く生き抜いて死んでいく襤褸(ぼろ)屑のような黒猫の ものがたりを。
 早く、はやく、書き上げなければ。あいつに見つかるその前に。摘取られてしまう前に。


 視ていたよ。
 僕は視ていたよ。
 おまえのしたことを。おまえのしてきたことを。


 囁くような声がする。幼い頃のかれ自身の声に似ている。少しだけささくれ立った、 透明なあの声に似ている。
 初めて自分の力で()ったのは天体望遠鏡だった。中学二年生の夏、誰にも内緒で、齢を 偽って潜り込んだアルバイト先の人人は皆優しかった。夢のように、嘘のように、楽しかった。 時にぎらつくほど強い輝きを放っていたあの場所は、けれど恐らく秘密と云うものの持つ 悖徳(うしろめた)い色合いをしていた。
 熱を出したふりをして、昼過ぎに引けてきた学校の帰りに、ほんとうは心臓が破裂しそうな ほどびくつきながら平気な顔をして欲しかったものを手に入れた。人知れず運び入れた魔法の 道具を真夜中雨縁(ベランダ)に据えつけて、ぎっしりと夜空を埋める青じろい星をひとつひとつ、 集めた。言葉を失くすほど娯しかった。
 幸福だった。迚も。
 だから忘れてしまっていた。夜空にあれの居ることを。
 翻した円い視界に飛込んできた、歿歿(ぼつぼつ)(きず)のついた、白茶けた楕円を接接(まじまじ)注視(みつめ)てしまった。
 胃の腑の底から込上げた体液の刳味(えぐみ)を、恐らくかれは生涯忘れることはないだろう。
 あの爛れた、膿を搾り出したあとの窩に善く似た象牙色の塊を、頭蓋の奥から(こそ)ぎ出せる 日など来ることはないだろう。
 早く、はやく、書き上げなければ。掠め取られてしまう前に。


「…おれは、」


 だから、と、言いかけた言葉の続きは茫茫(ぼうぼう)と吹荒れる川縁の風に剥がれて消えた。
 戯けるな、と、刺すような声を放った男は依然として滾つ眼眸を宮沢に向け、瘠せた躰で 荒狂う風を受け微動だにせぬ。緩くうねる髪がばさりと右の眼を覆った。剥き出しの左眼が 頬を抉った。
 (たがね)の如き目筋だ。
 それを微塵も緩めることなく、男は平生(いつも)通り芝居がかった仕草で朗朗と詰った。
「生半な気持ちで書きさえしなければ文学になると思うな。唯己の総てを賭せばそれだけで
表現になると思うな。そんなものは大前提(フォアグラウンド)だ。満たしたところで起筆(スタート)地点に立てるッて だけの話だ」
 そんな話をしているんじゃねえと、吐捨てるように言って邪魔そうに髪を払う。
 そして不意に、膝から力を喪うときのように語気を和らげた。
「だからな。…もう止せ。そんな話は、」
 十年、だろう――。
 酷く遣切れぬと云った表情で項垂れ、甲の狭い大きな掌で頸骨を撫でる。片手で頸が掴み 取れそうだ。
「そんな太古の昔の、精神的外傷秘話(トラウマエピソード)なんかな、…頼んだって誰も()たがりゃしねえよ」
「谷崎君、」
 静かな声がした。少し遅れて宮沢を追って来た、菊名の声だ。ひっそりとその名を呼ばう
だけの、独特の静止を頸から引剥がした掌で受けて、谷崎は――その手をやけに軽妙に、購う ようにひらひらと振る。
「あァ違う違う、書くなと言っているんじゃないぞ、話題(トーク)の話だお嬢さん」
 そんな内部告発(カミングアウト)されたい奴ァあんまり居らんぞ――。(おど)けたように眼を剥いて、器用に顔の 半分を歪めた。ばらばらと風の跫が駆けてゆく。宮沢が大きく息を吸った。咽にある管がひゅうと鳴った。
 静かになった。
 遠くの水辺で(わざ)とのように、悪童(わるがき)染みた竹久の笑い声がする。


「善いじゃねえか」


 歌劇のような流麗な仕草で谷崎はひょいと片手を()げた。非の打ち所無い軌跡(ライン)を描いて、 その手は肩の高さに停まった。
 あまりに極まり過ぎていて、まるで道化のようだった。
 善いじゃねえか――。
 黒髪を思う様風に(なぶ)られながら、男は薄い肩を竦める。


「手記の何が拙い。童話で何が悪い。おはなし(、、、、)の何処がいけねえんだ。立派なものじゃねえか」


 素晴らしい、
 ものじゃねえか――。
 男はそんなことを言って、ほんの一瞬酷く奇妙な顔をした。
 直ぐに降りてきた目線は、それでも変わらず、()り火に善く似た色をしていた。
 違う、違う、違うんだ、宮沢は今にも、膝に手を搗きそうになりながら不安定な不明瞭な 平生の発声で喚き返した。
 童話じゃない、日記じゃない、あれは、


「…小説じゃない。ただの寓話だ」


 矢張り少し離れて、聴いていた菊名が何かに耐えるように細い肩を震わせた。
「ほウれ見ろ莫ァ迦っ」
 間髪容れず撥返されたのは――思いがけず高い笑い声だった。
 たにざきィ――。
 莫迦言う方が莫迦なんだぞコラァ――。
 遠くの水辺で態とのように、間延びした竹久の声がする。
 それも無視して、子どもが子どもに悪態を吐くような、耳障りな声で男は笑う。
 空空(からから)と。可笑しそうに。
「素ッ晴らしいモンじゃねえかッ」
 力を籠めすぎて弓(なり)に反った人差し指が、降下ろすようにして宮沢を指す。


「阿呆面」


 石を投げれば当たりそうな、在り来りの顔で谷崎が笑った。
 何所にでもあるような、屈託の無い笑顔になった。
 あんまり当たり前の遣り方で、
 見た事も聞いた事も無いほど、
 あけすけに、ただ向こう見ずに、笑うので――。


 泣いてしまった。






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行き過ぎた友情万歳
そして背景写真に惜しみない拍手を
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何かありましたら











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