真夏の午後に、十六度に冷やした小さな部屋の中で、引っ張り出してきた黴臭い毛布に
包まる。
 真冬ごっこをしよう。言い出したのはどちらの方だったか、もう忘れた。


 16
 制御器(リモコン)の画面は先刻(さっき)からその文字を映したまま、TVの脇に放り出されている。十七平方
(メートル)の四角い部屋の片隅で、空っぽの空間に追遣られるようにして置かれた寝台(ベッド)は、一人用
らしく少し狭い。(ふざ)けている途中で、落ちる落ちる、と真顔で敷布(シーツ)にしがみついて笑われた。
根津は善く笑う。釣られて笑ってしまうくらいに。
「寒いな」
「いや寒くしとるし」
贅沢(リッチ)やねえ」
「既に電気代が恐ろしいわ俺は」
「あっは」
「笑うか? 笑うところか今の?」
 釣られ笑いを堪えて天井を仰ぐ。自分かって、また笑われた。根負けして今度は笑った。
阿呆か――。
「息白くならんかなあ」
 鼻の上まで被っていた毛布からごそごそと顔を覗かせ、はあ――と息を吐いて見せる顔を
横目に呆れた。「絶対無理」
「なったらどうするんよ」
「どうもせんよ」
「おもんないなあ」
 つまらないと言うくせにまた笑う。多分明日にとって今日くらい余計な日はないだろう。
「何をすればいいのよ」
 言い終わるか終わらないかのうちに頭から毛布が降ってきた。
「冬やよ、ナカ」
 聞き逃してしまいそうな小さな声が笑った。
「冬はね、生き物は、冬眠するんよ」


 高校受験を機にこの東京と云う街に来た。理由は特になかったが、あのまま生まれ育った
街に居続けることは出来そうになかった。出て行こうと決めたら、その日に発っていても
怪訝(おか)しくはない自分のことだ。比較的適正な手順を踏み、多少なりとも時間をかけて出て
来れたのは、それだけあの街を離れると云う決意が固いものだった証明と云えるだろうか。
 逃げて来た。屹度(きっと)
 決して覗きたくない、自分のなかの虫喰いだらけの小部屋から。
 諦めろよ、
 試しに呟いてみたが現実感はまるでない。ここにいるのはただの中学時代の同級生だ。
ふた月先に生まれたと云うだけの。同じ団地に偶偶(たまたま)住んでいただけの。おまえたちは姉弟
だと、前触れもなく言われたところで、実感の湧くはずもなかった。霹靂と云う字が、
そう云えばあの頃は読めなかった。
 けれど―― 一度書込まれてしまえば二度と消すことの叶わぬ、そんな既成事実とやらが
恐くなったわけではなかった。
 血が繋がっている、のだそうだ。
 それがどうした――と、一瞬でも思った自分の影が視界の隅を横切った時、肺の裏側の
辺りが、ほんの少しだけひやりとした。


 窓帷(カーテン)と枠の隙間を洩れる午後の光が迚も眩しい。
 睫毛の陰のすぐ下辺りまですっぽり毛布を被って、静かな寝息を立てる横顔を黙ったまま
茫漠(ぼんやり)見ている。
 まるで何も聞かなかったような顔をして、時折根津はふらりとここにやって来る。何も
知らないような顔でそれを迎える。浅草寺に行きたいとか、本多劇場に行ってみたいとか、
埒もないことをダ・ヴィンチ両手に真面目な顔で言い出すので、なんもないで――と一端に
首都圏在住ぶって中原は顔を顰めて見せたりもする。その割にそれら凡ての妙に古風(クラシック)
行楽地(スポット)を、堪能するのはかれのほうだ。
 人の群れに紛れ手を繋いで出かける。
 思うほどには、人は人のことなど見ていないものだと今更のように思う。


 いつまでこんなことを続けるつもりなのだろう。


 制御器の画面は先刻から同じ文字を映したまま、TVの脇に放り出されている。十七平方
米の四角い部屋の片隅で、空っぽの空間に追遣られるようにして置かれた寝台は、一人用
らしく少し狭い。
 なんのために、ここに来たのかを少し考えた。
 答は四年ほど前に出ている。


 静かに眠る白い顔を、起こさぬようにそうっと躰を起こしてみる。
 すぐに手の届く場所にある、白くて薄っぺらな箱を手に取る。どこにでもあるただの
魔法の箱だ。
 焦点は手許に掬ばないようにしながら、親指で(ボタン)を探る。
 燻んだ水色の、
 点滅機(スイッチ)を、
 押した。


 ふうわりと、頭の上から覆いかぶさるようにまず春が来た。下へ下へ追遣られた冬は音も
立てずに壊れて消えた。
 窓帷と枠の隙間を洩れる最後の光が迚も眩しい。
 眼を凝らすと何かの祈りのように頑なオレンジに染まる、ぐっしょりと染まる十七平方
米の歪な部屋の中に夏が来る。
 十五分の短い春を越えて、
 ゆっくりと。


 あついなあ――。
 寝たふりを止めた根津は眼を開けて笑った。声は小さく、掠れていた。
 暑くしたしな、まばたきと一緒に口を開こうとして、
 気が付くと違う顔で笑っていた。
「夏やしさ、」






 それから毛布は申し訳程度の夕陽の下に五分程晒されて、収納(クローゼット)の隅に畳んだまま忘れ
去られていた黄色い蒲団袋にしまわれた。普通に置いといたらええやん、と中原が呆れる
と、根津は矢っ張り酷く真面目な顔で、衣替えよ、と言った。だから初めに真冬ごっこ
などと言い出したのは、かれの方だったのかも知れない。
 夏らしく空調(エアコン)の温度は二十四度辺りに設定して、夏らしく薄い布を被って相変わらず少し
手狭な寝台に転がった。今度は二人とも眠った。その証拠にどちらも、その間のことを
憶えてはいなかった。
 虫の(こえ)もせず、風のひとつも吹込まぬ、暗い暗い部屋に流れた筈の時間を根津は茫漠と
思い浮かべてみたと言った。けれど今ここにあるのと寸分変わらぬその部屋の一人用の
寝台に、蹲るようにして眠っているのはどうしてもかれ一人なのだと困り果てたように
零した。自分の寝てるとこなんて見たことないしや――。眼を醒ました時と同じ姿勢の
まま、ぐたりと横たわって器用に頸を傾げる。寝具(マット)の上をカナダドライのペットボトルが
鈍鈍(のろのろ)と転がってゆく。根津はおそろしく少食だ。五百粍立(ミリリットル)なんて絶対に飲干せない。
 頬に落ちてきた髪ひと筋を代わりに掬い取ってやる。
 思い通りになることなど、幾つもないと知っている。
 瞼の裏側に転がるのはまだ缶だった頃の同じ商標(ロゴ)で、脳裏に僅かに残った味を追駆け
ながら、色鮮やかなものとは云えぬその記憶を塗潰した。もっと違う味だったような気も
するけれど、いまこう思うならそれでも善いような気がした。
 過ぎてしまった時間の束に、何か名前をつけたくなった。そうすれば屹度、写真のように
並べ貼付けてしまい込める。
 瞼を上げた。
 人工の風で少し乾いた口許に、代わりのように冷たい人差指がすうとあてがわれた。
 うすい自分の唇に逆様(はんたい)側の人差指を押当てて、しい、と子供のような顔が笑った。
 蓋しといた筈やんな――と思った。






 髪も乾かさずに、勝手に借りたTシャツを被ってぼうっとしていると呼鈴(インターフォン)が鳴った。
家主は五分程前に冷蔵庫を覗いて、おれの飲むもんないやんけ――と嘆いたと思ったら
あっと云う間に身支度をして一番近いミニストップに旅立ってしまった。案の定飲みきれ
なかったカナダドライが所在なさげにMAC――買った当人から青くてキモい、と散散に
言われていた――の前に佇んでいる。
 これ飲めば、と指差すと、厭やそんな温いの、とにべもなく切捨てられた。眉ひとつ
動かさずに嘘を吐くのは止めて欲しいと少し思う。理由なら屹度、そんな処にはない。
 また呼鈴が鳴った。
 今晩は、お早うございますかな――。
 いきなりすいません――。
 純朴そうな少年の声がした。部屋の電気は点いたままだ。中に家主が居るものと信じ
込んでいるらしいかれは、続けて俺です、島崎です、寝てるんですか――と矢張り朴訥
な口調で問うた。礼儀正しい子やねえ、と呑気に思いながら立ち上がる。先刻一緒に終りを
聴いたラジオのニュースで、明日も真夏日になるでしょう――と言っていた。外はまだ
暑いかも知れない。こんな時刻に約束もなく尋ねて来るほど親しい人間なら、入れてやる
くらいしても罰は当たるまい。
 玄関までの狭い距離を真直ぐ進もうとして、手製(ハンドメイド)の――根津には善く解らないけれど、
中学の美術の授業で作って、美術教諭より寧ろ技術教諭の方を驚かせていた――奇妙な
形の割に使い易い椅子の脇に、纏めてある小さな荷物が目についた。
 理由らしい理由といえばそんなものだったかも知れない。
 ほんの少し寄り道をして、この前の誕生日に理花がくれたニットの肩掛鞄(ショルダー)を拾い上げて
いる間に、玄関先でまた声がした。何してん、こんなとこで――、あれ中原さん、駄目じゃ
ないですか、電気点けっ放しですよ――。
 驚いた声は二人分の灯りのようなものをここにいる根津に伝えた。
 理由らしい理由といえば、そんなものだったかも知れない。
「じゃ、そういうことで、お邪魔します」
「うおおい! どういうことやねん! キャラ違うでなんか、」
「今年はね、押し出し良く行くつもりなん――」
 鍵のかかっていない扉を開けて、勝手に上がり込もうとした少年――確か島崎、と云った
か――は、丁度あっと云う間に旅支度を終えたところだった根津を眼に留めて文字通り凍り
ついた。素直な子やねえ、と、笑いを噛殺しながらながらお早う、と頭を下げる。島崎は
その場に脚を縫いつけられでもしたかのように棒立ちになって吃りながら答えた。あ、お、
お早うございます――。
「お客さんみたいやし、帰るなあ」
「いやその、ぼ、僕は」
 勝手に入ってきたと思ったら勝手に慌てふためく島崎が可笑しくて、一生懸命堪えた
けれど矢張り少し笑ってしまった。物凄くつまらなそうな顔を一瞬してから、中原は一応
言うけど明け方やで今――と低く答えた。珍しなあ、止めたわ、と吃驚しながら声を挙げて
笑う。「ほな、いっこ貸しな」
「ええ加減返せんなるわ! ――島崎、落ち着け、おまえちょっときょどりすぎや。頼む
から今は笑かすな」
「そんなん言うてもう半笑いやないの。ああ、そや、このTシャツ頂戴」
「え、そんなんでいいんですか」
「そんなん言うな! しかもお前が言うな! ああもう、あかん、おもろすぎや自分」
 言葉の途中で堪えきれずに笑い出した中原を見て、根津はふっと口許に弧を描く。気
持ちの少しも揺れていない、奇麗な笑みだと島崎は恐慌状態(パニック)の中悠長に思う。
「な、ええやろ」
 頂戴よう――。
 冗談めかして強請(ねだ)るように言った。
 頸を横に、振ってくれるかな、と思った。けれどそれをして欲しくはなかった。
 それが出来ずに苦しむ人であって欲しかった。


 三秒ほど間を置いて、眸の黒い、酷く大きく見える両目を男は眩しそうに細めた。
 持ってけ泥棒、と、うんざりしたような、投遣りな声を作って笑った。
 それがとても、嬉しかった。






「うわ、あの、俺、どうしよう、」
「どうもせんでええやろ別に。つか、何したん」
 丁寧に閉められた扉と、MACの前に陣取った家主を交互に見比べて、慌忙(あたふた)と挙動不審な
島崎に軽く笑う。尚も暫し狼狽(おろおろ)していた少年は、やがて怖怖(おずおず)と、前来た時に言ってた絵本が、
どうしても気になって――と切出した。はっ、と背凭れに寄りかかり、仰反(のけぞ)るように呆れた
声を挙げる。絵本だあ――。
「わあ、すいません!」
「ほんまやで。受験生が何悠長なこと言うとんねん」
 こんなもんに気い取られてんと早よ勉強しなさい――。説教染みた文句を口にしながら、
棚から引張りだした薄い本の表紙でぺたんと癖のある前髪を叩く。角張った眼鏡の太い枠縁(フレーム)
には当てないように注意しながら。
 島崎はお門違いの責任を感じているらしく、項垂れたまま善いんですよ――と暗い声で
呟いた。
「善いんですよ……もっと思いっきり、もうバシーンっとやっちゃってください……」
「残念ながらそんな深遠(コア)な趣味はありません。ええから早よ、読むんなら読みなさいよ」
 ああこれ、懐かしなあ、最初読んだ時めっちゃ泣いたわ――と、一度渡した絵本を島崎の
手からひょいと取上げて、頁を開いた瞬間――持っていた本を取落としそうになるほど安堵
したことに自分で気が付いた。もう大丈夫だ。大丈夫だ。理由が出来た。
 思い出したら泣けてきた、と笑い声を作った。煙草を喫うと言って雨縁(ベランダ)に出た。こんな
時に限って新しい箱を買い忘れている。
 外は通り雨が止んだばかりの、少し湿った真夏の馨りに満ちている。買った憶えの些細(ちっ)
ともないジッポで、最後の一本に火を点けた。
 ――これ喫い終わるまでか。
 お誂え向きに煙が染みて眼が痛い。黒ずんだ土瀝青(アスファルト)が滲むのを待ってきつく眼を閉じた。
 多分明日にとって今日くらい余計な日はないだろう。


 錆びた手摺も、時折背中に刺さる少年の気遣わしげな眼眸(まなざし)も、片足だけ見つからない
サンダルも、寝惚けた蝉も、一昨日悪友(はぎわら)とした約束も、昨日見た大門の人混みも、いつ
どこで聞いたかも定かでない悲しいニュースも、明日の天気も、捨てそびれた雑誌も、
卓子(テーブル)の前に置きっ放しの飲物も、一番の気に入りだったあのi-DのツアTも、何もかも
全部忘れた。
 返さないからね、と、笑っていた。だから初めに真冬ごっこなどと言い出したのは、
かれの方だったのかも知れない。
 もう続けられないよと音を上げる前に、
 他愛ない遊びの、電源(スイッチ)を切ったのはこの手だ。
 返さないからね、と、笑っていた。
 だからもう屹度、根津はここには来ない。


 いつも、いつも、いつも、いつも、
 本当は謝りたくてたまらなかった。
 こんなふうにしかできないことを。


 吸着剤(フィルター)ぎりぎりまで喫い切った煙草を、サンダルにありつけたほうの足で踏消す。
 白白と明けた東の空に、飛行機雲と重なって、虹が二本も架かっている。
 贅沢(リッチ)やな、と、
 考えていたらいつの間にか笑っていた。


 会いに行けるといい。
 殆ど莫迦みたいにそれを信じている自分の影が視界の片隅をまた横切って、


 ごめんなさい、と、呟いてしまった。




 



「Baby I Love You」
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ハピィエンド。言い張る。
img:雅楽
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何かありましたら

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