@






「善くもあんな、恥知らずな子を、」
 吐捨てる祖母を、ただ(ふくよ)かで柔らかいものだった白い顔の幾つもの皺を、少年は(あな)
ようなふたつの黒い眼で凝乎(じっ)と見上げていた。
 お母さん、それ違うわ――。無理に搾り出したような、震えるあの声は母親のものだ。
そうだったはずだ。もう殆ど憶えていない。懐かしいと、思わぬことはどれほどに重い
罪だろうか。
 もしも誰かの言うように、壊れたとしたなら一体いつだ。あれから十年近くして、窩の
ような眼だけをそのままに、躰だけは少し大人に近付いた少年は思う。
 本気で跳んだら、跳べた、
 かもな。




「グレゴリー」




 その団地には、見えない国境があった。
 かれの住む二○一号室はなぜか地上階の端にあり、すぐ上の二階は三から始まる部屋の
群れが、何食わぬ顔で並んでいた。
 一○三号室はテラスハウスの二階にあった。窮屈そうに匣のふりを続ける煤けた棟の
両脇に、ひっそりと暈けた影を落とす対のテラスハウスだ。四つの枡目を持ったその建物に
棲みついた面面は境遇も年格好も様様で、ただ強いて言うなら一人残らず、不自然に美しい
顔をしていた。野生の花のような、侵し難く、人を壊す、そんな歪なかたちをしていた。
 一○三号室はテラスハウスの二階にあった。陽当たりも風の通りも容赦なく良いその
部屋には、善く似た母娘が棲んでいた。
 やけに難しい字を書く、その家の娘は少年と同い年だった。領脚辺りで切揃えた髪から、
細い首がすう(、、)と生えているように見えた。母に善く似た奇麗な顔をしていた。どこか野蛮な
美しさだった。
 あんた、三中生――。
 父と二人住まいの、奇麗に片付いた部屋へ帰る途中、ただ近いだけの近道に飽きた少年は
持てる知識を総動員して遠回りに(いそし)んでいた。道道声を掛けてくる級友たちの誘いを悉く
断るほどに、真剣にその行為に没頭したのは持って生まれた性癖に等しい何かが鎌首を
擡げたからだ。元来お世辞にも出来が悪いとは云えぬかれの頭脳を以てすれば、市内を
隈なく一巡しながら帰路に就くことも容易い。つまるところその時、少年は調度、市内と
市外を繋ぐ長い長い橋の袂に立っていたのだ。
 前から、ずっと気になっていた。街の外れのその橋の向こう側。
 確かに長い橋ではあった。けれど別段、歩けぬ距離でもなかった。現に先刻(さっき)からここに
立って眺めているだけで、ごとごとと音を立てながら重い足取りで渡っていくトラックも
見て取れたし、向こう岸にはこちらにあるのと変り映えせぬ景色が広がっているようにも
思えるのだった。
 それでも、ここは国境だ。
 少年は知っていた。その意味を。言葉でなく。
 ここから先には、行けない、のだ。


「聞こえへんの?」
 寸分の狂いもなく、また声がした。(のど)の奥を掻毟られるような、まだ少しばかり無機質な、
その年頃の少女だけが持つ必要以上に透明な声だった。少年はこちら側に引戻された、
困惑と不興を誇らしげに塗込めて口を開いた。夏に手にした酷い(しゃが)れ声は、小春日和の
長閑(のどか)薄暮刻(ゆうぐれどき)(みだ)すことなく沁みていった。
「今忙しいんや」
「そう」
 ごめん、驚くほど過不足なく、あっさりと少女は真摯な言葉を手放した。つい最前から
茫然(ぼんやり)と、この場所に立(つく)していただけの、少年の大脳新皮質(こころ)の奥にある(せわ)しさを――吸上
げるような、奪い取るような、何一つ意に介さぬようなやり方だった。
「ほなな」
 くるりと踵を返し、少女はまったく正しい目方の挨拶を投げて寄越した。幼子の遣う
ものに似て、それ以上でもそれ以下でもなく、非の打ち所ないほどに、ただの別れの挨拶
だった。
「――何組?」
 振向いて、少年は思いつくままを口にした。随分と不用意に問うたものだと今にして
思う。お世辞にも出来が悪いとは云えぬかれの頭脳を以てすれば、周囲の望む答をどう
しても弾き出すことの出来ぬ自らの特性を見抜くことなど本当に容易くて、だから少年は、
殆ど病的と云えるほど細心の注意を払ってその頃を生き抜いていた。どうしてか箍が、
外れてしまったと云うなら、壊れたわけではないけれど――屹度(きっと)そう、あのときだ。
 唐突な切返しにも、少女は驚いたふうもなく、A組やけど――と問返すように笑った。
「A! 果てのクラスやな、一個だけ」
「あんたは?」
「D」
「めっちゃガラガラやなあ、声」
 一頻り言葉を交した後に、今更感のまるで否めぬ言葉を投げて寄越すから、その襤褸屑(ぼろくず)
ような声で少年は笑った。本当は密かな、自慢の酷い嗄れ声で。
「階段近おて狡いわA組」




 中学二年生と云う生き物は、大人が思うより余程思慮も分別も持ち合わせた生き物だ。
情報社会(データホリック)と云う大振りな単語も古惚けて久しい。かれらはかれらなりに物事を弁え、時に
洒脱(スマート)に、また公正(リベラル)に、遥かに真新しい世界を生きている。要約すると旧弊的な制度や慣例に
縛られぬのはむしろ中学二年生と呼ばれるかれらの方であるのだという至極つまらない話だ。
一○三号室の少女はかの女の属する二年A組内で、一部の同性に蛇蝎の如く厭われるだけの
比較的平穏な日日を過ごしていた。兎角人の噂の類に疎い少年が、少女に纏わりつく微朦朧(うすぼんやり)
とした靄のような翳りに気付けずにいたのも、ある意味無理のない話ではある。
 決して少なくはない友人達に、少女はネジ、と仇名されていた。
 矢張り両の手足で賄えぬほどの数の悪友に、少年はナカ、と呼ばれていた。
 姓を(もじ)っただけのどこにでもある呼び名が、互いに気に入っていたと云うだけの他愛ない
理由で、各各隠し持っていた小さな違和感を持ち寄るようになった。足許に蹲る国境も何も
かも超えて、誰にも見付からぬ場所を隠れて探し歩くようになるまで、さしたる時間は
かからなかった。
 十四歳の冬から次の夏まで、半年がただ翔ぶように過ぎた。あまりにも短く、目蓋の奥が
疼きそうなほど目映く、くっきりと焼きついて剥がれない、それは正夢に似ていた。
 だから少年は、小さかった背が――それなりに――伸び、生まれ育った土地を遠く離れた
いまでさえ、その凡てを、失うことができずにいる。
 頭蓋の奥に貯込んだ記憶は、毎日のように死んでいくのだと云う。それは確かだ。秒毎に
死生を繰返す、生きた砂の粒のような何かに、どれほどの望みを託せると云うのか。端から
信じてなどいない。それどころかかれは、自分の感情ほど信じられぬものはこの世にないと
思っている。問題は他のところにあった。実に由由しき、問題だ。
 過ぎてしまった過去のことなど、夢に見たのと変わりはないと――。
 骨身に沁みて解っている筈だのに、何故これだけが捨てられぬ。
 手放せぬ感情はただ消えぬだけでなく、日に日に深く、身の(うち)に根差していくように
思えた。
 ああ、
 育っている。


 (やまい)と云うなら限りなくそれに近いものだったのだろうと少し笑う。残念なことに、本当に
残念なことだが――例えば凡てを(なげう)って、今居る場所を逃出せば、それで済むと思える
ほどには――どちらも子供ではなかった。ひとつ()がれたくらいなら、すぐに塞がると
無邪気に信じてしまえるほどに、まだ少し、幼くもあった。
 あれから十年近く経って、見えない国境の多くあるあの地を、遠く離れた今ですら思う。
 間違ったとは思わないけれど、踏越えられずにいるべきだったその線を、見失ったなら
屹度あのときだ。
 さあ退屈な前置きはここまでだ。ここから凡てのはじまりを、
 終りのある長いお話を始めよう。






------------------------------------------------------------
続きます
img:hemitonium
re;
next [not ready] >>


何かありましたら
55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット