み ど り の は ね




 あれは入学式の一週間程前のことだ。
 透明な硝子に熱を通しながら、菊名は熟熟(つらつら)とそんなことを考える。
 そう云えば宮沢は硝子細工が好きで、そして得意にもしていた。誰にその
技術を習ったと云う訳でもなく、紙の上の情報とPC画面を師に持つかれの手は
火傷や潰れた豆の痕で少しだけ歪だ。骨張った手でひとつひとつ、叮嚀(ていねい)
織上げる姿を(とて)も尊いものに思う。
 あれは入学式の、一週間程前のことだ。
 まるで氷のような透通った硝子の雫に、熟熟とそんなことを思い出す。


 明日から四月だと云うのに、その日東京はすっぽりと分厚い雲に鎖され、
夜明け近くに降出した雪は(ひる)を過ぎても尚止む気配を見せぬ。辺り一面を薄ら
覆う白い泥を踏みしだき、近くのコンビニまでの道を辿る。独り暮らしという
のも中中物要りなものだ。
 ――食べないと、躰は動かないから。
 菊名にとってそれは迚も素直な感想だった。それは(たし)かに、見栄えするもの、
極端な味のしないものを選ぶに越したことはないのだろうが、食事と云う行為を
楽しむ必要は何処にも見出せはしなかった。吐く息が白い。
 心を砕いて欲しいわけではなくて、問われるままを答えただけのことなのに、
優しい人達は皆(こぞ)って顔を曇らせるから、どこに居てもいつも少し、居心地の
悪さを覚える。私はそんなに、――可哀想だろうか。
 角を曲がると、郊外の広い空の下に、ミニストップの黄色と青が朦朧(ぼんやり)滲んで
いるのが見えた。まだ少し距離がある。見渡す限り白い。頬が熱い気がした。
 どさりと音がした。消火栓の強い赤がべたべたと視界を汚す。(こび)りついた
白い粉に隠されて、消の文字だけが見えない。
 紅い円。
 その向こうに人影が差した。


 人影は、男だった。
 消炭色(チャコール)のパーカーの背に、薄い緑で大きくROVOと描いてある。朱色と見紛う
ばかりの、濃いオレンジのマフラーを寒そうにぐるぐると巻きつけ、ポケットの
取れたぼろぼろのジーンズをぐしゃりと無造作に穿()いた膝を折って、所所塗料(ペンキ)
剥げたガードレールに、凭れかかるように弧座(すわ)っていた。
 男は氷を手に持っていた。
 折れた氷柱――だろうか。幾ら雪の降る日とは云え、そんな氷がそうそう
転がっているような気配はない。
 その年頃の――多分に菊名とさして変わらぬ年代の――ものとしては、決して
大きくはない掌の中に、すっぽりと収まったその氷塊は手指のぬしの体温に溶か
され、透明な血を流しながら、刻一刻とその姿を変えつつあるようだった。
 男は黙ったまま、脇目も振らず凝乎(じっ)と手のなかのものを注視(みつめ)ている。どさりと
また音がした。酷く耳障りに感じた、自分自身に少し驚く。
 ――何を。
 しているのだろう。菊名が漸くその疑問に流れ着いたそのとき、男は手に
した氷を不意に逆様の手で持ち替えた。ぽたぽたと、善く見れば胼胝(たこ)だらけの
不揃いな指を水がつたう。
 相変わらず雪は止む素振りすら見せなかった。男は肩に立掛けるようにして
差していた、ビニール傘に積もった雪を億劫そうに揺すって払い落とした。もう
一度どさりと音がした。まるで気にならなかった。
 後から後から羽根のように重い沈黙が降ってくる。
 街はすっかり緘黙(だんまり)を決め込んでしまったらしい。菊名にはこの静けさが心地良い。
感光膜(フィルム)に映し出されたような、冷えた世界が肌に馴染む。
 ――それじゃ駄目。
 肺に詰込んだ空気の冷たさがずぶりと蟀谷(こめかみ)に突刺さる。
 数回、手に持ったそれを持ち替えた後、茫洋とした温度のない顔に、男は小さく
笑みを描いた。


 恐らくは(かじか)むその指で、ことりと足許に設えられた、氷は人型をしていた。


 心臓の辺りで握っていた手が、怯気(びく)りと引攣るのがわかった。
 あなた迚も奇麗なものを(つく)るのね――。
 優しかった、ほんの少し瞭り、好きだと思った中学時代の美術教諭が記憶の中で
矢張り悲しげに顔を曇らせた。
 奇麗だけど、奇麗だからかな、生きてないみたいに先生には見えるわ――。
 ――知ってる。
 ずっとその訳を知りたかった。そこから逃れる術を知りたかった。だから
かの女は、今日まで彫ることを止めてしまえなかった。楽しくもない、幸福に
似ても似つかない、時計の針で呼吸を刻み続けるようなその行為を、続ける以外に
何ひとつ手がかりなど持たずに。
 恐らくは悴むその指で、ことりと足許に設えられた、氷は人型をしていた。
 透明な血を流しながら、為す術もなくそこに立ち降頻る雪を徒被っていく、
 生きた、ひとの、姿をしていた。
 暖かかった。


 よし、と、満足げに頷いた男が、傘を揺らしてまた雪を払い落とすまでを――。
 菊名はそこに立ち尽して、黙ったまま凝乎と見ていた。肌を裂くような尖った風が、
促すように頬を撫でていってもまだ動けずにいた。
 一度だけ立ち止まったその人は、億劫そうに空を見上げて、雪やなあ、と
朧り言った。背中越し届いた声は思いがけず嗄れた、小さく()れるよう芯の視えぬ
もので――、訛りの強い響きが、白い息をつれて昇っていくのがみえた。菊名の
知る口遊み方とは、違う響きをしている。今にして思えば、徒でさえ足りぬ言葉を
選ぶようにして、長い話をしてくれる時の、宮沢の小さな声に少し似ていた。
 雪の道など歩き慣れているのか、躊躇いもせず踵を返すその足取りは、結局最後の
最後まで、菊名に気付くことをしなかった。煉瓦造りの校舎の片隅で、一億人の
中からなぜかかれをまた見つけてしまってから、気づけばもう一年近く経つけれど、
あの日見た凡てのことを、誰にも話したことはない。
 あれは入学式の一週間程前のことだ。透明な硝子に熱を通しながら、菊名は熟熟と
そんなことを考える。
 菊名の名前は、雪、と、いう。






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