「ソト」




 そう云えば、何を考えているか判らないと言われたことはあっても、何も考えていない
と言われたことはなかった。
 それにしても、これはどう云う状況だと、もう随分汗をかいたマイライムサワーのジョッ
キを横目に中原は珍しく困っている。あまり得意でない麦酒(ビール)を、可愛い後輩が是非にと
勧め()いで来るものだから――しかも泣きながら――この打ち上げが始まってもう小一時間
は過ぎたいま、かれは未だに最初の一杯の象徴たるそれから脱却出来ずにいた。
「飲んでくれよ。飲んで下さいって。幾らでも注ぐよ」
「や、飲んでますて。なんや、具体的にどないした宮沢」
 聞くぐらいなら出来んで、軽い気持ちで――と云うか至極当たり前のこととして――口に
した中原に、宮沢は剣のある眼つきもそのままに思いがけず破顔した。わかってます――。
「結局他人は聞いてやることしか出来ないんだよな。あんた嘘吐かねえから安心する」
「んな、話の枕くらいで大袈裟な」
「善いっスよ別に照れなくても。普段から思ってなきゃ、枕にったってそうは出ねえよ」
「持ち上げるなぁ」
 持ち上げてねえよ本気だよ――、怒ったように答えて、宮沢は既に危なげな手つきの手酌
で自分のコップに注ごうとする。その手を押留めて、もう温いやろ、と新しい瓶を取った。
中原にしてみればそれだけのことが、宮沢にとっては酷く大きなことに見えるらしかった。
言葉もなくまたぼろぼろと泣出すので輪をかけて言葉もなく黙り込む。生きることに、
浮かび上がることに、これ程必死になれることの方が余程凄まじいとかれなどには思える。
何を考えているか判らないのに、妙に地に足が着いていると人は言う。中原はただ、これ
以上落ちることの出来ぬ底を知っているだけだ。這蹲(はいつくば)ってこの掌に、無慈悲な地表を感じた
ことがあるだけだ。それからずっと、その場所に立ち続けている。失うものがないと云う
事実は肩の力を良い塩梅に抜いてくれた。もう何も怖くなかった。
 ただ、
 あなたの――。
「…何唄ってんスか」
「ん? ああ、声に出てたか」
 思い巡らせているうちに、脳内BGは神田川に設定(スイッチング)されていたようだ。しかもうっかり
自演(プレイ)していたらしい。一度電源(スイッチ)が入ると、どこまでも独り駆抜けてしまうのは、中原の
終ぞ治らぬ病のようなものだった。はたと我に帰って(うしろ)を顧みてもそう云う時は大概遅い。
頭の回転が速過ぎるのだと、最後までかれを買被ったまま別れたいつかの人が言っていた。
居もしない神に誓って、絶対にそんなことはないと思う。そう云えばあいつは地元に帰っ
たんだったか、元気でやっているだろうか。
「勘違いもな」
「え?」
「それで誰かの支えんなるなら、まあ、悪いもんちゃうわなあ」
 中原の中で、舞台はすっかりあの日小田急のホームで別れた人の眩しそうな笑い顔に
飛んでいて、気付いてからしまったと思ったが矢張り時は遅かった。
「優しいよな、あんたは。善く許せるよ」
 俯いたまま吶吶と呟く宮沢の中では、どうやら中原の思いも寄らぬ形で辻褄が合って
しまっていて、うん、と頷いて目を伏せて、おまけに小さく笑われた。拙い。
「でも、いいな、それ。凄くいい」
 噛締めるように言う項垂れた顔に、数瞬狼狽えたが最後にはまあいいかと苦笑した。
別に嘘を吐いたわけではない。ひとかけも余さず、伝え受取ることなど最初から諦めて
いる。
「…なんで許せねえんだろう。おれ」
 いま笑った烏がまた泣出した。慌ただしいことこの上ない。填絵(パズル)欠片(ピース)を埋込むように、
ひとつ、ひとつ、大事そうに話す宮沢を中原はまだ黙ったまま見ている。自分が同じ事を
されたら、屹度(きっと)押付けだと言って切れる(、、、)のに、同じものを見て欲しくて仕方ないんだ、
そんな風に言って泣いた。迷路みたいだ、いつも、いつまで経っても、おんなじことの
繰返しだ――。
 手を離したのか離されたのか、どちらにしろもう過去ってしまった日のことを、いつ
までも後生大事に反芻していられる優しさのような何かは――(たし)かに美しいものではある
のかも知れないが、それ以上に酷く不健康だ。中原は――かれにしては適宜(タイムリー)に――強く
そう思った。思い出は息をしない。眠らない。夜だって明けまい。そんなところに浸かって
いたら溺れてしまう。望むと望まざるとに拘らず、どんなに許し難かろうと必ず朝は来る。
取零そうが置忘れようが巻戻すことなどできはしないのだ。取りに戻れだと? 道は一本
きりだ。
 ――あかん。
 頸を振って息を吐いた。今更昔取った杵柄でもあるまいに、棘棘しい思いに駆られそうに
なっている。止せ止せ、柄にもない。それもこれも、こんな締切った密室に籠っていた
所為に違いない。どうかしている。
 外行こう外。そうと決まれば身支度だ。
 なんだ窓が――開いているじゃないか。
 掌で思いきり眼を摩った宮沢の耳に、立上がった中原が力任せに把手(レバー)を引いて窓を閉める
不快な金属音が響いた。驚いて振返る。窓なんかあったんだ。それも開いてたんだ。ああ
そうか、酔っ払った石川が、巫山戯(ふざけ)て開けて叫んでたっけ――。
「外の空気が吸いたなった、」
 やけに厳粛に言い放ち、中原は宮沢の泣腫らした眼を振向いた。行くか――。
「そんなべそべそで、おまえ今かなり恥ずいけどな」
「…煩瑣えですよ」
 憮然とした顔で言い返して、宮沢は矢っ張り、泣き出しそうな顔のまま、ぐしゃりと
笑った。そうだよな、外――。
「…なんて簡単なんだろうな」
 気の効いた洒落のひとつも、返してやろうと思ってやめた。今何を言ったところで、
可愛い後輩に感動的(ドラマティック)な幻を視せてしまうだけだ。何が契機(きっかけ)こう(、、)なってしまったのかは
まるで思い出せなかったが、とにかく一瞬の出来事だった。何かの弾みに失望される時が
来るなら、その時もまた瞬殺だろう。偶然探し当てた居心地の良い場所を、罅ひとつ入れず
守り続けて行くことなど最初から諦めている。そう云えば、何を考えているか判らないと
言われたことはあっても、何も考えていないと言われたことはない。買被ることと見損う
ことは、とても善く似ていると思う。





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(一方的な)仲違い前。笑。
宮沢さんがかわいすぎた…orz
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