春なんか早く過ぎちまえばいい、と、世界の終わりにでも立たされたような絶望的な
表情で石川が言っていたのを、谷崎は通い慣れてしまった路の真ん中でふと思い出す。
花粉症ぐらいで何を大袈裟な――と笑い飛ばしながら、天真爛漫な学侶に思いがけず癒され
ている自分がいた。高高一般教養の授業で一緒になるかならないか、そんな程度の話で
裏切るなよ――と真顔で釘を刺す友人を他愛なく掛替えのないものに思う。不思議と、
かれがどれだけ履違えたことを口にしても気には障らぬ。却って微笑ましいような気分に
なることすらざらだった。弟でも出来たようだ。同い年、強いて言えば数ヶ月ほど、石川
のほうが年嵩だと云うのにだ。
「谷崎君――」
「ああ」
 不意に声がして、その位置が余りにも低いことに、未だに慣れることが出来ない谷崎は、
いつでも必要以上に優しげな声を作ってしまう。どうした――。
(あたし)が訊こうとしてたところだったのに。――どうしたの、惚っとして」
「ああ、いや、一雨きそうだなと」
「本当?」
 谷崎君は勘がいいからなあ――。厭になるほど塵ひとつ無い双眸(ふたつめ)で笑って、頭ふたつほど
も小柄な顔はすうと空を仰いだ。仮令(たとえ)それが誰ぞの言うように、谷崎の前だけでのことで
あっても、すくなくともここにいる間は、久世の言葉に淀みは無い。だからというのでは
ないけれど、愚図愚図と固まらぬ地盤を敢えて気に懸けぬようにしながら、谷崎はこの
位置に甘んじている。
 久世は、初めて見た時から、棒切れのような少女だった。
 かの女が不思議と耳に触ることの無い高い声で笑いながら、少し前を跳ぶように駆けて
ゆくたび、お世辞にも(しなやか)とは云えぬそのぎこちない足首の、蝶番の辺りの動きが眼について
仕方なかった。臆面も無く素面で酔ったようなことを口にする宮沢と同列になりたくなくて
口にしたことは過去になかったが、菊名が走ると手足が折れそうな気がしてはらはら(、、、、)する、
と零していたかれの気持ちは痛いほど善く判った。それが判らないのは精精がところ、要
するにどこまでも天真爛漫な石川か風変わりにも程がある中原ぐらいのものだろう。類友
とは善く言ったもので、不思議とかれの周囲には、健康美とは程遠い華奢な体型(ライン)を好む男が
多い。尤も宮沢にしろ谷崎にしろ、先ず自分自身が人のことを兎や角言えた体格ではない
のだが。その点では石川も中原も御同様だ。どいつもこいつも碌なものを食べていない
ような痩躯をひきずっている。改善する気は毛頭無い。文学者と豊かさは相容れぬもので
あるからだ。
「谷崎君てば」
「ああ、悪い」
 拗ねたような声に再三呼ばれて漸く我に帰った。失態だ。もういい、と、興味が失せた
ように早足で前を行く背中は愈愈(いよいよ)小さく、得体の知れぬ不安を掻立てる。愚かだ、と片隅
で思えど焦りは消えぬ。
 ――虚勢だな。
 まるで谷崎自身の口癖を真似るように、にやりと笑って宮沢が言った。判っている。そんな
ことは、何よりも。誰よりも。
 ――雨降んぞ。面倒くさがらんと、傘持ってけ。
 いつも沈着な男が取乱したのが余程可笑しかったのか、久世の名前が出るなりここぞと
ばかり玩具にされていた谷崎にも、まるで興味を示さなかった中原が、帰り際にそれだけ
言って寄越したのが酷く記憶に新しい。そうした話に関しては、決して悪戯(わるふざ)けを仕掛けて
こないあの先輩は、今のところ谷崎にとって人生で三つ目か四つ目の大きな謎だった。
気心は知れても、行動原理は全く読めぬ。援けられてばかりいるようで、些か気分が悪い。
谷崎は、決して口にはしないけれど、自尊心が高いのだ。
「久世、」
 小さな声で呼ばうと、静よ、と笑い返された。
 ぽつり、ぽつり、土瀝青(アスファルト)(まだら)模様が落ち出している。雫が大きい。夕立だ。
 俯きがちに進む肩を掴む。骨の形が掌に伝わるほど細く、じんわりと、胸が痛む。わけも
なく。
「――傘、入らんと、濡れちまう」
「平気よ」
 こどもじゃないんだし――。
 淡淡と言う声は、変わらず細くたよりないものなのに、決して――例えば昨日とすら、
同じものではなく――知ってるさ、とつきつけそうになるのを谷崎は黙って堪えている。
 ――どうして。
「風邪、引くだろう」
「その時はその時だわ」
 雨に濡れるの気持ち良いじゃない――。
 ふわり振向いて長い髪を靡かせて、頭ふたつほども小さな影は矢張り笑った。
 折れそうな手足も、塵ひとつ見当たらぬ瞳も、何ひとつ変わらないのに、
 いつの間にこの子は、こんなに大人になってしまったのだろう。


「あ、可愛い犬」
「久世」
「静」
「……静。そっちじゃ、ねえだろう。路」


 一切の感情を押込めたような声で、諌めた。
 そのときのかの女の、惑いなく――ある種の落胆すら込められた眼眸(まなざし)を、谷崎は暫くの
間忘れることが出来なかった。


「…知ってるわ」


 路になんか迷わない、つまらなそうに言って、何かを諦めたように久世は傘の下に戻った。
ひらり跳ぶような足取りで、谷崎は矢張り、その動きに眼を奪われてしまった。決して
疚しい気持ちは無いのだと、居もしない神とやらに誓うような思いで。


 春雨だった。
 夕立だった。
 直ぐ、止むだろうか。
 夕空のうちに、泣き止むだろうか。


 春なんか早く過ぎちまえばいい、と、世界の終わりにでも立たされたような絶望的な
表情で石川が言っていたのを、谷崎は通い慣れてしまった路の真ん中でふと思い出す。
 この路は久世の部屋に続くただ一本の路だ。
 黙って歩くのは、厭で――。
 黙って歩くのは――。






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聴きすぎて書かされた…笑。
img:水珠
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