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ひとりになった。
上等だこの野郎さあ思いきり泣いてやる、半ば以上咬みつくように、降って湧いた孤独に
身を任せようとしたその時だった。
兀
(
こつ
)
。
兀。
やっと塞いだ最後の
窩
(
あな
)
の、固い栓のような扉が鳴いた。誰だか知らないが、間が悪いこと
この上ない。自分も凹んでいるくせに、それを認めもしない理屈っぽい野郎をやっと追
返して、さあ朝まで凹もう、そうしたらまた歩ける、根拠もなく自分に言い聞かせて部屋の
隅に
弧座
(
すわ
)
り込んだ――こんな時に。
「…誰」
ありったけの怨みを込めて、鬱陶しそうに唸って見せる。背中の毛を逆立てて、まるで
親友を亡くした、黒い猫のように。
聞慣れない、舌足らずな、乱暴で切羽詰まった声がそれに応えた。
「竹久っすけど」
「ラフメイカー」
だから誰。
最初に浮かんだのはそんな言葉だった。竹久夢志。サークルの多分、――幾つか先輩。
幾つ上なのかは、確か触れない方が善い部分だったような気がする。すぐには思い出せない
ほど、付合いとしては薄い部類だ。これが石川だったら怒鳴り散らしてやれたのにと、
お門違いの舌打ちをする。
また、扉が鳴った。
「竹久だけどっつってんじゃん。聞こえねえの」
「聞こえてる。…ますよ」
「じゃ開けろ」
「何でだよ。何の用、」
悪いけど後に――言いかけた言葉に被せるようにして、竹久は極当たり前の口調でやけに
頭砕しに言い放った。
「剣玉教えてやっから開けろ」
「ははっ」
宮沢なぁ、綿雪のような吐息を天井に向け放り上げて、中原は冷えた頬で笑った。掠れ
た、低く薄い音色だ。向こうが透けて見えそうな、鬚入りの酷い
嗄
(
しゃが
)
れ声。
「あいつ、下ッ手やろ、剣玉」
あれでも毎日やってんねんで――。可笑しそうに浮かべられた白い息と言葉は、足跡
残さず竹久の痩せた躰を擦抜けて行く。マックロクロスケみたいな奴だといきなり思った。
まるきり人蓄無害ですとでも云いたげな、愛嬌のある物腰で、ふわふわとすぐ目の前を
飛んで行くのに――掴んだ手は、煤けてべったり黒くなる。何も残さないより遥かに質が
悪い。思い込みだったとしても、今はそんな風に思う。
「下手だよな、
慥
(
たし
)
かに」
いつもどこか投出すような、癇の強い張詰めた声で竹久は
囀
(
さえず
)
る。始発間際の駅舎に、
二足のスニーカーがぽくぽくとふやけた音を鳴らした。俯いているのかと思えば、確かめる
ように爪先を
注視
(
みつ
)
め進む生真面目な顔を見て、中原はまた少し笑った。なぜ笑ったのか自分
でも解らなかった。ただ何となく、気分が善い。
「やろ?」
教えたれや、元ジュニア選抜――。唆すような口調で、投げ渡された言葉は誰にとっても
肌触り善く思えるだろう
長閑
(
のどか
)
な色合いで、宮沢が聴かなくて良かったと
茫漠
(
ぼんやり
)
思ったりも
した。菊名のこと、宮沢のこと、その凡てを意にも介さぬ中原自身の繭玉のような
多彩
(
カラフル
)
で
傍迷惑な生き方を、竹久は直截でなく人伝に少しだけ垣間見たことがある。自分が宮沢なら
と思うと気が
狂
(
ちが
)
いそうになる。あんまり簡単に善く来たなと笑うから、招き入れて貰えた
そこはまだ客席だと忘れそうになるけれど、何度でも自分に言い聞かせようと思う。傷
つかないために、傷つけさせないために。そうだおれたちはもの凄く遠い。
「あいつ、酒飲ますとおもろいで。すぐ感動してぼろぼろ泣く」
「でもさあ、お前もさ――、」
左眼を眩しげに眇めて、口許を歪めた竹久は何故かばつが悪そうに呟いた。宮沢だって
何も好きで泣き出したんじゃねえだろと、少し解ってしまったからだ。
「それ善いなって思うこと、急に言うなよ」
「いや頼んでねえし」
「お前じゃねえよ。ナカが言ってたから」
「は?」
全身の力がぬけた。何の真似だあの野郎。どうせ何も考えていなかったに違いない。
意味など無いに決まっている。あいつは全部が、――どうでも善いはずだから。
「駅で会ったんだよ。あいつ何だか、でけえ荷物持ってたな。変なパソコン」
「…作ったんだ、あの変人。自分で全部材料集めて、」
「だっけな。
携帯
(
モバイル
)
したら肩が抜けそうになったとか、またわッけわかんねえこと言ってたよ。
多分俺が見たのが最後だ」
それが何だ。無性に
肚
(
はら
)
が立った。一番最後にこんな奴に会うからふらっと姿を消したく
なるのだ。親しい誰かに鉢合わせれば、そんなことには、こんなことには、
――そんな相手があれに居んのか。
「それが何。真に受けてんじゃねえよ。どうせ思いつきで適当なこと言ってんだ」
谷崎を思い出しながら、見下したような声を作った。随分と凶暴な気持ちになる。途端に
戸板の向こうから、癇癪玉のような言葉が跳返ってくる。
「剣玉なめてんじゃねえぞおい。だから下手だって笑われんだよ」
「煩ッ瑣ンだよ! 大体あんた間ァ悪過ぎンだよ、おれはな、」
――おれは。
「爪先をさあ、ガン見してさ、なあんか確認しながら歩いちゃう時あんだよな」
ひとりの時は危ねんだよ、癇の強そうな尖り声を、妙に心細げに緩めて竹久は零した。
頭ひとつかひとつ半ほど低い位置から、例の嗄れ声があまりあけすけに笑うので
怯気
(
びく
)
りと
する。
「ええけど一緒におんのが俺だけン時もやめといてくれ」
たのむし、寒さで
悴
(
かじか
)
んだ頬を無理矢理に動かして、放り返された言葉は真新しいのに
どこか摩減っていて、尚更竹久の身を硬くした。遠退いた、ような、それはただの振り幅の
ような、――まだ上手く読めない。
深い意味などないと誰かが言っていた。
それが本当なら随分と突放されたものだ。
「……お、おう」
「ごめんやけど」
おまえの
額
(
デコ
)
に手え届かんしさ、いっそ憮然とした表情で、この処毎朝更新されるこの冬
一番の冷え込みとやらに強張った手を閉じたり開いたりしながら中原がいうので、竹久は
笑っていいものかどうか、判じ兼ねながら矢張り笑ってしまった。そっちかよ――。
「笑い事ちゃうわ。こう、ガン、ガン! ってなるのがオチやろ。共倒れやん」
「謝るとこじゃねえしそれ、」
「
寒
(
さみ
)
ィよ。開けろよ」
「………」
「うおおい。宮沢あ。開けろよ。…開けろっつってんだろ!」
「煩瑣えよ! 二分に一回
平均
(
ペース
)
でキレんな! 近所迷惑だろが! 苦情来たらどうすんだ」
「善いじゃねえかよ苦情のひとつふたつ。大体なぁ、
宮沢謙司
(
ミヤザワケンジ
)
が四畳半に住んでんじゃ
ねえよ。都心とかに住めよそれっぽく」
「大学無茶苦茶遠くなってんよ! あんた意味解って言ってんの?」
いい加減呆れながら扉越しに宮沢は答えた。最後のほうはため息が
同乗
(
ユニゾン
)
している。あの
野郎、と居なくなった男のおそろしく憎めない顔を思い浮かべながら毒吐いた。勝手に
居なくなっておいて、変な置き土産を残すなと思う。朝から菊名とは連絡が取れない。
それが余計暗澹たる気分に拍車を掛ける。
――すぐに戻るって。
言っただろと子供の癇癪のようなことを言ってしまいそうになる。不安だ。不安だ。
置去りにされたような心細さにも似た軽い絶望感。身を委ねることもできそうにないその
浅瀬に、宮沢は
蹲
(
しゃが
)
み込んで無理やり浸かっている。あの男について考えることは、徒諾諾と
着信表示を待侘びるよりも菊名に近いことだ。それがどんなに漠然とした堪難い苦痛でも、
何もしないよりはずっと、菊名に近いことだ。
――何だ。あいつ。
竹久などに言われるまでもない。<宮沢謙司>は今やひとつの確固たる
商標
(
ブランド
)
だ。けれど
そんな事実がなかったとしても、誰にも負けるつもりなどなかった。ただ何かひとつだけ、
宮沢にないものを中原宙也と云う浮ついた名前のあの男は持っていた。それが何かは
瞭
(
はっき
)
り
とは解らなかったが、宮沢にとって踏込むべきではないと思える場所にそのただひとつは
あった。まるで無価値であるどころか、持っていることが汚点のようにすら思えるその
何かが、かれのみならず殆ど凡ての人間とあの男を隔てる薄く強靭な膜だった。そして
宮沢はまた知ってもいた。菊名は少しだけ、ほんの少しだけだけれど、他の人間――例えば
宮沢よりも、その境界の近くにいる。時折手を、伸ばしている。
鼻の奥がつんとした。
耳障りな声がそれを邪魔した。
「みーやーざーわー」
「煩瑣えよ! 今呼ぶなよ! 台無しじゃねえか! 我に返っちゃったよ」
「何がだよ。だーから入れろっつってんじゃねえかよ。そしたら黙ってやるよ」
「黙るって。剣玉はどうしたんだよ」
「あ、そうだ。じゃ黙らねえ」
「意味解んねえ……」
がっくりと項垂れ、盛大なため息を吐く。一体何なんだこいつは。存在そのものが
余計
(
ビッグ
)
な
お世話だ。膝の上に置いた両手をだらりと傷ついた
床板
(
フローリング
)
に垂らして、縒れた
襟刳
(
えりぐり
)
の
曲線
(
ライン
)
を
視界の片隅でなぞった。綺羅綺羅と窓辺に差込む陽のひかりが、小春日和の
午
(
ひる
)
の訪れを
誇らしく触れ回っている。どいつもこいつも有難迷惑な。
唐突に
ごがん
(
、、、
)
、と物凄い音がした。敷居の辺りだ。
扉
(
ドア
)
越しの
衝撃
(
ショック
)
に思わず声もなく宮沢は
飛起きた。信じられねえこいつ、今蹴りやがった。
「そこに居ンだろ。黙んなよ。俺が泣きてえよ。寒すぎる」
「違う意味で泣きそうだよ俺が! 扉蹴るか? 普通蹴るか? ヤンキーかよ!」
「昔な」
――うわあ。
あっさりと返ってきた答に思わず引いた。ドン引きってこういうのを言うんだろうなと
何処かで冷静な自分が呟く。餓鬼の頃だぞ、中学ン時――。
弁解
(
いいわけ
)
がましく外の男はやけに
通る声でなにか言っている。そんなこと知りたくなかった。
「…もう善いからさ、帰ってください」
「引いてんじゃねえ! 帰らねえよ! 帰れるかよ、おめえどうにかするまで俺はなあ」
「帰れば善いじゃねえか! 寂しい奴だな。止めてくれる彼女居ねえンかよ」
「煩瑣えッ! おめえこそ置いてけ堀
喫
(
く
)
ってんじゃねえか! 似たようなもんだろ!」
「一緒にすんなよ! 居るのと居ねえのとじゃ大違いだろ!」
迷惑な来訪者の、どうも痛い所を突いてしまったらしく、数倍の声量で数倍痛い所を
突き返された。うっかり泣きそうになりながら怒鳴り返す。変わんねえ変わんねえ――、
喧
(
けたたま
)
しい
反撃
(
カウンター
)
に余計泣きそうになる。
「そんじゃおめえの彼女は何しにいったのよ。
先輩
(
ナカ
)
探しに行ったんだぜ当てもなく。どうよ
それ宮沢的に」
「どうって何だよ。何だよ」
「だからさあ」
棘棘しかった声が急速に力を失くす。背中越しにそれを聞いた宮沢は吃驚して思わず泣き
止んだ。おい、
真逆
(
まさか
)
。
「馬鹿だよあいつ……ほんッと馬鹿だよ……何でわかんねえかなあ、」
「あんたが先泣いてどうすんだよ! 今吃驚して涙止まったよ俺!」
「だってさああ、」
逆吃
(
しゃく
)
り上げながら言って、竹久は止まらなくなった涙を派手なオレンジの
羽地
(
ダウン
)
の袖で
乱暴に拭った。誰も見ていないところで、仕草ばかり恰好つけても無駄だという事実は、
この際無理にでも無視した。
「俺ずっと考えてたんだよ。あいつが居なくなってからさ。なんであいつ俺におめえの話
なんかしたんだろうな。別に俺らそんな仲良かったわけじゃねえじゃん」
「どころか。一瞬顔が出てこなかった、っての、」
小さく鼻を啜ってから、宮沢も骨筋の浮き出た手の甲で殆ど零れそうになっていた涙を
拭いた。うわあ、俺、もうほぼ泣いてたんじゃん――。思うと余計に涙が出て来た。熱が
あると判ると途端に躰が怠くなる、あの感じに善く似ていた。
寂しいこと言うなよお、とよれよれの声がして、次いで竹久夢志、社会学部社会学科国際
社会選科二年生です――と自己紹介が来た。思い切り泣いている。宮沢は宮沢で矢張り
派手に逆吃り上げながら、宜しく、と場違いに親しげな挨拶を返した。
「あいつさあ、」
「うん」
「悪気ねえじゃん。全ッ然悪気ねえじゃん」
「うん」
それだけは確かだと思ったので――だから余計
悪吐
(
むかつ
)
く――力強く頷いた。竹久はだよ
なあ、そうなんだそうなんだよ――と何度も繰返しながらまた泣いた。だからさあ――。
「なんかこういうことがあっても
衝撃
(
ショック
)
受けたくなかったんだよ。可哀想じゃん」
「…は?」
「俺はさあ、」
――ごめん。
――悪い事したな。多分。
金曜五時からのサークル会議の後、三三五五帰路に就いたり出掛けたりする連中に紛れ
て、石川と中原が何か喋っているのを見かけた。傍には谷崎と藤岡も立っている。どうやら
石川の小さな失敗談を肴に、他愛なく笑いあっているらしかった。混ざりたいなと思い
ながらも、殆ど金に近い極端な自分の茶髪を石川に快く思われていないことを知っていた
竹久はすごすごと鞄にiPodをしまい、それから無駄に出してあったHI-TEC-Cを筆箱に戻そう
としていた。
言って善い事と悪い事があると思います――。
妙に強張った声で藤岡が言うので、竹久は再び顔を挙げて声のした方を見た。見れば
石川と谷崎は次の撮影の
日程
(
スケジュール
)
表を提出に向かっていて、中原と藤岡だけがそこに残されて
いた。その場に居た男どもは三人が三人とも矢鱈と
能
(
よ
)
く通る声をしていたので、少し離れた
所に居た竹久にも会話の内容は筒抜けで――それ程酷い事を言っていたようにも思えなかっ
たが、何がしか藤岡の気に障るものがあったのだろうと茫漠思った。同時に
豪
(
えら
)
く
女子的
(
、、、
)
な
抗議だと思った憶えがある。何が癪に障ったのか知れないが、瞭り言って貰えなければ
謝ろうにも謝れぬ。
と。
先刻
(
さっき
)
まで如何にも
軽薄
(
バカ
)
そうな笑い声を挙げていたのがまるで嘘のように、ふ、と生真面目
な顔をして男はひとことごめん、と言った。悪い事したな、多分――。一切弁解の余地を
求めないその言葉が竹久の耳に焼きついた。藤岡は逆に傷ついたような顔をして、黙って
礼をすると教室を後にした。まるで逃げ出したみたいだと思った。
酷く寂しい気持ちになったのを憶えている。その先を聞こうが聞くまいが、結局自分には
理解できないのだと、誰より知っているのはかれ自身なのだと思った。簡単に諦めんな
努力しろよ――と、言いたい気持ちも勿論あった。けれどそれと同じくらいに、谷崎や
石川や久世や、それに傷ついた顔をして見せた藤岡自身がなんの他意もなく善く遣う、
解らないでしょうけど――と云う前置きをどんな気持ちで消えた男が聞いていたのか、
そんな余計なことを考えて、何を思えば善いのかが解らなくなってしまった。
「俺はさあ、人にしてやるとかじゃなくて、自分がなんかしようと思って――誰かが
衝撃
(
ショック
)
受けるとか、そんなんで我慢すんの厭だよ」
勝手に衝撃だっただけだろって――。
下手したら思うよ――。
半月型の大きな眼を瞬かせて、竹久は座り込んだまま上を見上げた。古いアパートの
廊下の天井は本物の曇り空より煤けていて、迚も息苦しかった。
宮沢からの答はない。言葉もなく、息を止めるようにして、
泣いているのだとなぜかわかった。
冷たい風が吹きつける。冬の陽はどんどん傾いていく。
頭到手摺の隙間にまで差掛かってきた。今何時だろう。携帯持ってくれば善かった。
まだ何もできていない、空の両手を
凝乎
(
じっ
)
と注視る。
俺はここに何しに来た。
言うなればそう、俺は――できれば――偉大な、
――
道化師
(
ラフメイカー
)
だ。
竹久――。
何でしたっけ
先輩
(
センパイ
)
――。
随分して、そう随分してから、宮沢の低くざらついた声がぽつりと問うた。
振払うように二三度瞬きをして、竹久は億劫そうに立上がる。聞いとけよちゃんと――。
「聞こえ辛ェんだよ。んな、ひっくひっくしながら言われたって」
「煩瑣えよ。竹久夢志、竹中直人の竹に和久井絵美の久、ドリームの夢に志すと書きます。
社会学部社会学科国際社会選科二年生、因みに二浪です」
「小ネタは善いよ挿まなくて。痛い」
「好きな食べ物は目玉焼きつきのハンバーグとピザ、特技は剣玉と変顔です」
「変顔かよ。…ちょっと待った」
「性格は――」
「待てって。寒いだろ。入れよ。今開け――」
るから続きは中で聞くよ、まで口にする前に、
把手
(
ノブ
)
に手を掛けて扉を押そうとした時気が
ついた。
開かない。
――扉歪んでるよおい。
力任せに蹴るからだ、流石元ヤン――と思いながら把手をがちゃがちゃと回す。相当酷く
歪んだらしく、内側から押しただけでは開きそうにない。舌打ちをして、向こう側に居る
だろう男に声をかけた。おい、竹久さん――。
「あんたが馬鹿力で蹴るから戸開かねんだよ。悪いけどそっちから引張ってくれ、」
しん、とした。
さっと寒くなる。おい、また真逆じゃねえだろうな、何て期待を裏切らない――。
「おい、竹久さん! 居るんだろ! 引いてくれって。面倒臭えんならそう言えよ。とり
あえず居るんなら何とか言ってくれ」
厭な予感がしてどんどんと内側から扉を敲く。嘘だろ、あの引きで居なくなるなんて
誰が思うかよ。あんたにしてみりゃ散散喚き散らした挙句に厭ンなったのかも知れない
が、俺にしてみりゃ、
おい、居るんなら返事しろって――。
――答はなかった。
「……マジかよ。本気で居なくなりやがった」
愕然と呟いた途端に膝から力が抜けた。この寒空の下、泣きながら
醇醇
(
くどくど
)
と甘っちょろい
戯言を並べ立てるから、
寸暇
(
ちょっと
)
善い奴かも――なんて思った俺が馬鹿だった。先刻より大分
傾いた陽射しが、矢っ張り誇らしく小春日和の午後二時半を告げて回っている。眩しいん
だよ。
窓帷
(
カーテン
)
閉めるのも面倒だ――。
どいつもこいつも、
有難迷惑な、
鼓膜を
劈
(
つんざ
)
くような――硝子の割れる音がした。
否、割れるなどと云う生易しい話ではない。文字通り力任せに、撃砕かれるような、
それは迚も美しい音だった。
透通った破片の細かな雪がひとつひとつ真冬の西陽を反射して、最期の抵抗のように
輝きながら散っていく様がまるで
高速度撮影
(
スローモーション
)
か何かのようにくっきりと眼に焼きついた。
動けない宮沢の視界の真中で、逆光を負う男はそのまま残骸と化した
窓枠
(
サッシ
)
を蹴り外す。
物凄い音がして、
軽銀
(
アルミ
)
製の安い窓枠は床についた手のすぐ脇に転がった。
男は肩で息をしている。裏手の廃材置き場か何かで拾ったのだろう、それ自体が瓦落
多のようなひしゃげた鉄
管筒
(
パイプ
)
を何かに堪兼ねたように放り捨てた。
甲
(
かん
)
。
甲、甲。
耳障りな音を立てて、管筒が転げていく。
一度だけ洟を啜った。寒さの所為ではない。
なぜか見下ろす高さから、上目に睨めつける眼は真赫に泣腫らすあまり最早痛そうだ。
だいたいこんなかんじです、と拗ねた子供のような口調が呟いた。性格は――の続きだと、
思い当たるのに大分かかった。無茶苦茶だ。
「……いい歳した男がなあ、マジ泣きしてんじゃねえよ」
軋るような、いつでも何かに追立てられるような切羽詰まった拙い声で、竹久は何かを
抛
(
なげう
)
つように吐捨てた。マジありえねえし――。
嘘だろ、と、思わず呟きそうになる。涙なんか
疾
(
と
)
っくに止まっていた。
――その言葉そっくりそのまま返してえ。
もしかして集合住宅的にかなりやばいことやってねえか俺――、青褪める冷静な自分を
押し退けて、込上げてくるものに逆らわず宮沢は、
涙が出るくらい笑った。
「ありえねえのはあんただろ。どうしてくれんだ人ん家の窓、」
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任務完了
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凛
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♪
55 STREET
/
0574 W.S.R
/
STRAWBERRY7
/
アレコレネット
/
モノショップ
/
ミツケルドット