「 ラ ン チ 」








 その日、理花が壊れた加湿器みたいにびょおびょお泣きながら英菜(はな)に電話をかけると、
生憎かの女はあの見慣れたオレンジの扉の部屋を留守にしているところだった。周参見に
いるという。理花もくる、と冗談みたいにあっさりと、真摯な言葉を返すので、思わず
頷いてしまった理花はだから、こうして平日の午後三時の、誰もない地方路(ローカル)線に揺られて
紀伊半島を南へ南へと下っている。
 理花は京都に住んでいる。どこにでもいる携帯量販店(ドコモショップ)の店員だ。週四日働いて、足りない
分は夜の仕事で賄っている。所謂キャバ嬢と云うやつである。そしてそこで、どう云う
わけか英菜に出会った。
 英菜は客としてその店にやって来た。なにかの拍子(、、、、、、)に知合った――英菜の交遊関係の
殆どを、理花はそうした形でしか捉えることが出来ない――岩崎と云う神経質そうな優男
が、行きつけのその店に英菜を連れて来たがったらしい。酒舗(キャバ)に女連れで来るか普通――
と、同僚のマリは迷惑そうに吐捨てていたが、理花はその女の方に興味を持った。理由は
もう思い出せない。
 ハナと呼ばれるその少女――実際には二十歳は過ぎていたらしいが、どう見ても十七八
の少女にしか見えなかった――は、十月末に袖無(ノースリ)の、オレンジ色のワンピースをすとんと
身に着けて、なぜか頸に鈴つきの衿をつけていた。ロフトあたりで売っている、バニー
ガール系の仮装衣裳(コスプレセット)についてくるあれだ。領脚の辺りできちんと切揃えたボブと、身態(みなり)
不釣合いな男物のサンダルが可愛いと思った。上機嫌で囀る男の、隣と呼べなくもない
場所にだらんと腰を下ろして、少年のそれのようにすんなりと伸びた素足をぶらぶらさせて
いた。この世の終わりみたいにつまらなそうな顔をして。
 ――奇麗な子。
 場違いにそんな感慨を覚えた。小さなものだったけれど、理花は屹度(きっと)その時の気持ちを
忘れることはないだろう。昼に仕事を持つ理花のような腰掛けキャバ嬢が、のほほんと
生きていられるような小さな舗ではあったけれど――仮にもそこは夜の商売の端くれ、
可愛い子も奇麗な子も掃いて捨てるほど見てきたし、最近はそこいらを歩いている子だって
芸能人顔負けに自分を磨いていたりする。すっかり見慣れたと思っていたから、そんな
風に思った自分に自分で吃驚した。
 奇麗な子なら幾らでもいる。それは慥かだ。ただ強いて云うなら、英菜はいまも昔も多分
最初からずっと、手付かずの――と云うより、手のつけられない野晒しの花のようなもの
だった。奇麗は奇麗でも、どこか酷く、野蛮な色をしていた。
 巡り巡って、済崩し的に理花は英菜とメールや電話で話すようになった。ある日突然、
もういまの家(、、、、)には居られないからと云って、五条堀川の理花のアパートに英菜が転がり込んで
きたこともあれば、気付けばそこを引払って一緒に棲んでいたDJ崩れに振られたと云って、
今朝のように人目も憚らずびょおびょお泣きじゃくりながら、いつの間にか山科にあった
英菜の部屋に理花が押掛ける夜もあった。
 誘われるとつい嬉しくなって、簡単に従いて行っては痛い目を見る理花のことを、叱る
でも軽蔑するでもなく迎えてくれるのは英菜だけだった。英菜は気が付くとなにかの拍子(、、、、、、)
知り合った男に買与えられた服を着ていて、しょっちゅうあの奇麗なオレンジの扉の部屋を
留守にしていたが、そんなことはかの女にとって、どうでもいいことであるらしかった。
 英菜と云う、理花より余程源氏名染みた名前で呼ばれること以外に、かの女のすらりと
絵筆で引いたような眉を攣上げさせるものは殆どないのだと、この一年で少し学んだ。
滅多に学習しない理花にしては異例の快挙と言えるだろう。英菜、と口にするたび、
最初のうちかの女は化粧気のない眦を屹度攣上げて止めて、と一一訂正を求めた。けれど
理花は、英菜を取巻く能天気なお嬢様大学の生徒たちのようには、簡単にネジと云う仇名を
口にすることがどうしても出来ないのだった。安直(チープ)な呪文のようなその二文字の片仮名は、それ
だけで英菜の抱える湿気た焼菓子(ビスケット)のような過去を余さず理花に押付けてきた。それだけで
かの女は、息が止まってしまいそうになる。仮令(たとえ)英菜が通行人のようにしか思っていない、
名前も顔も意味を成さない男達に呼ばせている呼び名でも、理花にはその方がどれだけ気が
楽か知れなかった。英菜を英菜って名前で呼ぶ、どうでも善くない一人目にして――と、
子供の癇癪のような我儘を言ってみたりした。そう云えばあの時も、英菜は子供みたいに
けたけた笑っていたんだっけ――。
 ――じゃあ、
 ――英菜は何なら信じられるの。
 自分の気持ちなんか一番信じたらあかんよ――。珍しく呆れたように言う英菜を、丁度
その時英会話教室の講師との淡い恋に敗れたばかりだった理花は、矢張り仔猫のように
ぴいぴい泣いて問詰めた。英菜はいつでも気高い野良猫のように毅然としていて、善く笑い
善く喋ったが簡単に泣いたり喚いたりはしなかった。何か固く、信じられるものがあるから
そうしていられるのだと思った。それを聞いてみたかったのだ。
 いつか見せて挙げれるわ屹度――。困ったような、確信にみちた声でそのとき英菜は
答えた。そして今朝、理花もくる、とあたりまえのように言い放ったそのあとで、英菜は
矢張り困ったように笑ったのだ。
 ――見にくるんやろ。




「英菜あ」
 メールで送られてきた住所の家に辿着くなり、玄関の呼鈴(チャイム)を鳴らしながら理花は情けない
声を挙げた。物物しい扉――板チョコみたいな浮彫(レリーフ)――が微かに軋りながら開かれて、中
から英菜が顔を出す。「理花」
 善う来たねえ――、嬉しそうに笑って、英菜は些細(ちっ)とも育たない凹凸のない腕で扉を押し
開けた。善く手入れされた大きな(いえ)の艶艶の廊下に、色褪せた造花の影が薄く落ちている。
広すぎる薄板(タイル)張りの玄関に、細いバックストラップつきの、丸い輪郭(ライン)の英菜の靴がきちんと
揃えて脱いである。そのすぐ脇に、――履潰す寸前と云った有様の、汚れたスニーカーが
転がっていた。
 ――これ。
 理花が何か言う前に、英菜は子どものような仕種で、(しゃが)み込むようにしてその靴に手を
伸ばした。別段潔癖なところがあったわけでもなく、理花の使った食器もタオルも同じ
ようにして片付けていた筈なのに、どうしてか英菜の細い指が、今にも剥がれ落ちそうな
オールスターの刺繍(ロゴ)に直で触れるのを、眼にした瞬間どきりとした。
「それ、弟の」
 いつの間にか踵を返していた英菜の肉の薄い背中がぽつりと言った。靴のことだと思い
当たるのに少しかかった。
「…弟?」
「そう。弟やって、面と向かって言うと怒んねんけど」
 黙ってあとを従いていく理花には、どういう子細(わけ)全然(さっぱり)解らなかったのだけれど――口を
挟む機会を逸したまま為す術もなく続きを待っている。話しながら、階段の下の突当たりで
立止まった英菜は、そのまますうと白い顔を上げた。
「あの子、また真冬にサンダル履いてったんやわ」




 ここ、何なの――。英菜は自分の部屋に人を招いた時しか家事の類をしない。英菜の
珈琲を飲むのは久しぶりだと思いながら、殆ど上の空で理花が尋ねると、かの女は冷凍(チルド)
のアイスの残数と睨めっこしながら細い頸を傾げた。
「お父さんの別荘。――違うかな。元実家」
「お父さん? 英菜、お父さん居たっけ?」
「居らんかったら生まれてへんやろ。変なこと言うなあ理花は――」
 可笑しそうに言いながら、冷凍室の奥に手を突っ込んだ英菜に、そうじゃなくって、と
理花は不満げに口を尖らせた。幾らあたしだって、そこまで馬鹿じゃない。そういうこと
じゃ、なく。
 ふふふ、と、気持ちの少しも揺れていない奇麗な笑みを英菜は作った。それはかの女が
誰にでも本当に善くする表情で、目にするたびに理花は、いつもはどこか深いところに
ある、生生しい寂しさのようなものに襲われる。迚も好きな、大嫌いな顔のひとつだ。
「居ってんな。中三ぐらいまで、全然知らんかってんけど」
「ふうん、」
 何だか込入った事情がありそうだ。副業のほうの同僚たちには、そうでなくとも色色
仔細ありの子が多い。理花は殆ど習慣的に、話の矛先を他の所に向けようと視線を宙に
泳がせた。そしてこの家にある造花と云う造花は、随分枯れて、褪せた色をしているの
だと云うことに気付いた。何とはなしに寒くなる。
「実家なのに誰も住んでないんだ?」
「らしいなあ。お父さんのことって、あたし善う知らんのやわ。弟が――あの子もうすぐ
帰って来ると思うし、興味あんねやったらあの子に訊いて」
 どうでも良さそうな顔で、英菜はお目当てだったらしい蜜柑味のアイスを取出しながら
答えた。わかった、と、なるべく気のなさそうな顔を作って理花も珈琲の残りを啜る。(うす)
朦朧(ぼんやり)と白い湯気がひろがって、頬を優しく撫でていく。暖かい、と呟いてまた笑われた。
英菜は善く、笑う。
 笑いすぎ――と理花が膨れて見せようとした時、玄関の戸が開く音がした。ざり、ざり、
と砂だらけのサンダルの(あしおと)が二度ばかりする。鍵束か何かがちゃりちゃりと鳴った。
「おかえり」
 廊下をゆく(はだし)の跫に、逃げ場がないほど精確な分量の言葉を英菜は投掛けた。中途半端に
開いたままだった扉の隙間で、ただいま、と声がした。驚いたのはその凄い(しゃが)れ声にでも、
真冬の海辺に自殺行為と云っても善いほどの軽装にでもない。寒さで(はっき)りと血の気の引いた
妙に白い頬を攣上げて、歯並びの悪い口許で、英菜の弟と云うその人は、姉とまったく同じ
笑い方をし、まったく同じだけの重さの言葉を投げて寄越した。あんまりその量が精確
なので、理花はまた息が詰まりそうになってしまった。――のどが熱い。
「うお、なんじゃこの卵天国(パラダイス)
「母さんが、」
「小母さんが?」
 食卓(テーブル)の隅に置かれた薄茶色の卵の山を眼に留めて、男は徒でさえ大きな眼を円くする。
英菜の簡潔な答に余計話が見えなくなった。この人は英菜の弟で、その英菜の母親と云う
ことは、かれにとっても母親に当るはずだ。それが小母さん(、、、、)では間尺に合わぬ。
「目玉焼きにして明日食べよ。――あとな、お客さんや。友達の理花」
 まるで気にした風もない英菜に、不意に名を呼ばれた理花が目を白黒させていると、
向こうから先に隅隅まで規格(サイズ)通りの挨拶を投げられた。初めまして――。
 怯気(びく)りとした。確かに血の通った脆く柔い笑みを、それでも硝子の向こうに見せられた
ような気持ちになったからだ。
外套(コート)
「え?」
「そんな敷いてたら皺んなってまうよ」
 泊まってくんでしょう――、差出された手を目にしたとき、理花は自分が知らぬ間に
気に入りの萌葱色(ビリヤードグリーン)の外套を手渡していることに気付いた。まるで気の抜けたセブンアップ
みたいに、すかすかの声でありがとう、と言いながら。
 手が。
 火傷の痕だらけだ。
 高速度撮影(スローモーション)のような光景が流れ込んで来る。大きな、大きすぎる衣裳棚(クローゼット)の中には衣桁(ハンガー)
二つしかない。英菜は珍しく自分の外套を着てきたらしかった。奇麗な紅緋(スカーレット)の、毛氈(フエルト)地の
袖が隙間から覗いている。代わりに外されたかれの上着はどこにいくのだろう。英菜は
それを数瞬凝乎(じっ)と見ていたけれど何も言ってはくれなかった。
「ネジ。それ取って」
 空いた手で飲みかけのレモリアのペットボトルを指差す。自分で取りいな――と笑う
声が理花の耳を通り過ぎて行く。ええやん、とって、不満げに口を尖らせてかれは笑った。
ポケットに手を突っ込んで、頸を竦めるようにしてゆっくりと応接間(リビング)を出て行く。声を、
ほんの小さな音を立てることも出来なかった。外套は掛けて貰えたけれど、笑って答えて
貰えたけれど――理花は屹度いま、ここには居ない。
 ネジ、と、英菜の淹れた珈琲の湯気で曇る空気を罅割れた声がふるわせた。
 ――名前も教えてくれなかったな。
 扉が閉まった時に思った。




 ここで何してるの――。
 理花が問うと、英菜は何もしてへんよ、と肩を竦めてうすい唇で弧を描いた。
「逃げてきたん」
「逃げて?」
「理花かって、」
 おんなじやろ――。
 磨かれた卓子の隅に空になったカップをそっと置く。かち、と細い音がした。
 理花は肩に()しかかる記憶の束から逃げてきた。逃げて逃げて、こんなところまで来て
まだ寂しさに泣崩れそうになっている。染着いた味や匂いや手触りや、そうしたもので
溢れかえるあの部屋からは逃出せても、瞼の裏の残像だけは、決して離してなどくれない。
それなのに。
 ――厭だな。
 小さく頸を振る。嗅ぎ慣れないこの邸の匂いを肺いっぱいに吸込んだ。理花を招き入れて
くれたこの隠れ家のような古い邸は、余所行きの顔で余所行きの空気を、そっと理花に
差出してくれた。火傷だらけの手、滑り落ちそうな優しいだけの顔、そんなものに善く似て
いた。
 英菜は何から逃げてきたのだろう。
 あの子の言葉はいつでもぎりぎりだ。叶わないこと、叶えられないことだけは、冗談に
も口にしない。
 自分の部屋でしか家事をしないはずのかの女が、きちんと三人分作ってくれた昼食を
目にするなり、あの人は笑った。食べきれないよ、というようなことを、英菜と同じ訛りの
強い言葉で言って頸を傾げた。
 英菜はおそろしく少食だ。一人前なんて絶対に食べられない。
 そんなことは屹度、かれにとって当たり前のことなのだ。
 ――厭だな。
 もう一度声に出さずに呟いた。
 人気のない長い廊下で膝を抱えて、白い壁に靠れかかる。この壁の向こうに、英菜たちは
居る。理花はいま、どうしても、あの人の名前が知りたい。




 夜がきた。
 この邸が無人になってから、本当に長いこと足を向けたことがなかったらしく、姉弟(きょうだい)
どちらにも使い方が判らなかった浴室(バスルーム)逆様(はんたい)にかれらの格好の遊び場になったらしかった。
理花もその騒ぎには加担した。広過ぎる浴室で三人固まって、ああでもないこうでもない
とあちこちの(コック)を捻ったり把手(レバー)を回したりして時時冷たい水を被った。(かぶ)けあいながら、
英菜は二三度弟の名の断片らしきものを呼んだ。その度に理花は、何だか妙に緊張して
弟の顔を盗み見た。目の前の遊びに夢中になっていたらしいかれは、その呼び名に別段
表情を変えたりはしなかった。
 小一時間ほど、そんな刻を過ごしただろうか。漸く一通りの使い方も判明し、無事汲む
ことのできた湯船を最初に堪能したのはまるでVIP待遇の理花だった。いまは英菜が入って
いる。英菜は時折心配になるくらい、長い時間をかけて入る。俺はいいわ水被ったし――、
そう言い残して二階の奥のあの部屋に引っ込んでしまった人の背中が、どうしてか理花は
酷く気懸りで舟を漕ぐのをすら躊躇っている。


 TVの画面は場違いに鮮やかな色合いを振撒いている。
 音は消してあるらしい。声も立てずに硝子の中の小さな人が笑っている。


 きし


 廊下の軋る音がした。別段息を潜めているようでも何でもなかったけれど、何故か急に、
ざわりとした。
 応接間の、古い扉の重みを撥退けるようにして外へ出る。
 玄関の、板チョコみたいな浮彫の、艶艶の扉が閉まるちょうどそのとき。
 ――どこに。
 ――何処に行くの。
 きちんと揃えて脱いであった男物のサンダルを咄嗟に履いて駆出した。
 今にも剥がれ落ちそうなオールスターの刺繍の、
 あの靴がない。


「――ねえ、」
 何と呼んで善いのか判らずに、前を行く背中に駆寄りながら闇雲に声を投げつけた。
 吃驚したように立止まり、決して広くはない背中が理花を振向く。
「え、」
「え、じゃないよ! 何処行くの、こんな時間に」
 息を切らして理花はそう問いかけた。外套を着てくれば良かった。けれどいまはそう、
寒さなんかに負けるものかと。何の話をされているのか、判らないとでも言いたげな、
唖然としたやけに小奇麗な顔にだって、絶対に、負けるものかと。
 だって。
 英菜は。
「どうして何も言わないで行っちゃおうとするの? どうして、英菜のお母さんが小母さん
なの? お母さんでしょ? ……あたし全然わからない、よ、」
 どうして――。
 何を言っているのか自分でも判らなかった。あの広い家の中で、緩りと降積もった根雪の
ような静けさは、いつの間にか堰を切れるほど沢山の小さな声になって煩瑣くて居られない。
 あたしにも――。
 掴まれるものくらいあるんやわ――。
 理花に見せてみかった、そう言って英菜は笑った。あの子上着を持って行ったでしょう、
確信に満ちた、途方に暮れたようなあの顔が凝りついて離れない。抱えきれずいまは今出川にある
部屋を逃げ出してきた、あの時の何倍も何十倍も膨れ上がった瞼の裏の残像よりなお悪い。
「……どうして名前も教えてくれないの」
 長い長いため息のように漸くそこまでいった。
 画面の向こうにあるようだった大きな黒い眼が優しくなった。
「ああ、そうか、……名前、」




 何処にでも浅く瑕を残すような声が中原宙也、と名乗るので、紅茶花伝のホットを甞め
ながら今度こそ理花は覚悟を決めた。話の途中で何かを推量ろうなど、土台無茶な相談だった
のだ。善くある話なのかも知れず、初めて聞く話なのかも知れなかったけれど、理花が若干
平和惚けした頭で先読みしたところで、到底追いつける場所にかれらは生きてなどいない
らしかった。苗字違うね、と、小さく呟くに留めておく。
「外套も着んと、深草さん(えら)い寒そやけど」
 俺も寒いの厭やねん、あっけらかんと笑って、かれは着けていたマフラーだけを理花に
貸してくれた。
「俺もネジも、兵庫やんか」
 サンガリアのブルーマウンテンを、関西(こっち)来んと飲めへんねんなあ、とぼやきながら
封切って唐突に中原は話しだす。理花は黙って頷いた。朦朧と憶えている。尼崎だったか、
宝塚だったか。
 それから耳にした話を、どんな風に畳んでしまい込めば善いのか理花にはまるで見当も
つかない。函館に生まれ湘南と前橋で育った理花には、被差別部落と云う前時代的な言葉が
まず耳に馴染まなかったし、出自を理由に身重の躰で男の前からあっさりと姿を消した
英菜の母親の気持ちも、全くの他人として出会ってしまってから事実を知らされた姉弟の
気持ちも、到底理解できるものではなかった。途方もない話だ。そんなものを姉弟とは、
肉親とは呼べまい。
 いきなり居らんなったらしいてね――。
 呟いた中原はなぜか笑った。遣切れないほど心からの、可笑しそうな笑みだった。
「流石ネジのお母んやで。即断即決にも程がある」
 短くなった煙草を缶の中に落としながら、かれはそこでふっつり言葉を切った。確信に
みちた、困ったような横顔は、そんな時ばかり少しだけ英菜に似ていた。
「うちの親父もな、これもほんま俺の親父や思うわ。筋金入りの大馬鹿や」
 それでも嫌いになれないのだと、諦めきったように潔い声がいうから、理花は何かを
伝えるどころか、ほんの小さな音を立てることも出来なかった。
 英菜は時折心配になるくらい、長い時間を浴室で過ごす。上がったら客間を開けるから
特大(キングサイズ)寝台(ベッド)で寝ようと笑った。あたしと一緒で善いの、驚いた理花がそう訊き返すと、
吃驚したような顔をして、それからまた、笑った。
 服を掛ける場所がないから、あの子は屹度もう居なくなると言って笑った。
 でも理花は、理花にはどうしても言っておきたいことがひとつある。
 だって、
 英菜は、
 叶わないこと、叶えられないことを口になんて絶対にできないあの子が、


 明日の朝ご飯を一緒に食べようって言った。


「親父が居れへんかったら、ネジも居らんのやし」
 そんなことを思えるのは本当に時時の話だけれどと――。
 英菜と同じ訛の強い言葉で辿辿しく前置きして、自分で自分が酷く不思議だと云う顔で、
いっそ気の抜けた声が呟いた。
「おれなあ、」


「ネジが居るんやったら、それでいいと思う時があるよ。生きて、どっかに居るんやって、
思うと涙が出るよ」






 重たい脚を引きずって、板チョコみたいな浮彫の扉をやっとの思いで理花が開けると、
長い廊下は珈琲の匂いがした。鈍鈍(のろのろ)とサンダルを脱ぎ、鈍鈍と奥へ進む。応接間の扉を
潜ると、まだ少し濡れた髪の英菜が珈琲を淹れているところだった。
「理花」
 外套も着んと、寒かったでしょう、絵筆で引いたような奇麗な眉を少し曇らせて英菜は
嗜めるように言った。理花は最初ここに来た時と同じように、英菜あ、と子どものような
力無い声を洩らした。
「とめられなかった、あたし、」
「止めるつもりやったん?」
「だって、英菜が、朝ごはん一緒に食べようって言ったのに」
「あはは」
 何で理花が泣くんよ――。矢っ張り可笑しそうに笑って、些細とも育たない細い腕が
理花を長椅子(ソファ)に座らせた。英菜が泣かないからだよ、どこかで読んだ科白をそっくりその
まま口にして、理花は壊れた加湿器みたいに声を挙げて泣いた。
「……あの子ちゃんと、マフラーも巻いてった、」
 屹度駅のある方を朦朧眺めながら、ぽつりと英菜が問うた。うん、貸して貰えなかった、
しゃくり上げながら理花が答えると、子どもみたいに笑われた。
「理花に見せたかったって言ったでしょう。あたしにも掴まるものくらいあるんやわ」
 観音開きの瓦斯(ガス)台の下の戸棚の奥を探りながら、英菜は静かにうすい唇で弧を描いた。
「上着掛けるとこが足りないからとか、そんな理由で居らんなる子よ」
 お目当てだったらしいガムシロップの新しい袋を引張り出して振返る。英菜にとって
信じると云う言葉は、そうした意味を持つのだと上の空で思う。
「きょうだいじゃない、」
 きょうだいじゃないよこんなの、手の甲で涙を拭いながらふるえる声で漸く言った。
ありがとうね、と、卵の山を冷蔵庫の扉の棚に積みながら英菜はひっそりと答えた。
「でも、あたしとナカは、ほんまに血つながってるらしいから」
 まだ少し濡れた髪の英菜が、もう一度珈琲を点ててくれた。
 英菜は時時心配になるくらい、長い時間を浴室で過ごす。それがとびきり長いときには、
泣いているのだと云うことを理花はちゃんと知っている。








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何かありましたら
55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット