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何を遺せば――。
水 槽
ああ、そうか。
そう云えばここは教室の中だったのだと――。
中原は今になって漸く気付いたように顔を上げた。
海辺のこの街に、二つの雨が降っている。
纏わりつくような水の気配に塞がれて、壁についた手がぬるりとした。薄らと、眼に
映るもの
凡
(
すべ
)
てが、透通ったグラスのように汗をかいているらしかった。溺れてしまいそうな
気持ちで、水浸しの空気を詰込む。酸素を含んだ
溶液
(
リンゲル
)
だったか、そんなもので肺が満たされ、
巨大なロボットを操る漫画か何かが
慥
(
たし
)
かあった。アニメだったろうか。散散大風呂敷を
拡げておいて、それは楽しみにしていた最終話で、主人公の少年が唐突に画格の外で自慰に
耽り出した展開に
豪
(
えら
)
く驚き、気分を慝くして逃げるように映画館を後にした。そうだ、
映画だ。随分と、流行っていた。
「ナカ」
懐かしい声が、廊下から聞こえた。こんなとこに居ったん――。
「ネジ」
振向くと、根津が立っていた。
ナカ
(
、、
)
も
ネジ
(
、、
)
も、中学の頃ついた仇名だ。そう云えばかれ
らは、互いの名前も
碌
(
ろく
)
に知らぬのだった。誰より傍にいた。だから、知らないのだ。
――あたしな、自分の名前嫌いなん。
――
宝塚
(
ヅカ
)
か! みたいな名前やしさあ。
――おれもや。
――芸名か! 思うわ。
まあええか別に、ネジのまんまで、そう言うと根津は笑った。うん、ほんなら、ナカで
ええな――。
「いきなり消えんといて、
吃驚
(
びっくり
)
するわ。捜してて、迷ってしもたやん」
「自分の
通
(
い
)
ってる大学で迷うなや。真面目に通うてへんねやろ」
「そらなあ、ナカさんみたいに出来る子ちゃいます。なんやのトーダイて、信じられへん」
「うははは。ひれ伏せ!」
「誰が褒めてんのよ、ど厚かましい」
「嘘やん」
貶されとったんかい――。愕然と空を仰いで、その先にある染みの浮いた天井が、案外
近いことに苦笑する。決して大柄な方ではない。
世界は、狭かった。殆ど冗談じみて。それを、思い出して、しまった。何気なく指を
這わせた、窓がまたぬるりとした。気取られぬようその指を剥がし、乾いた
襯衣
(
シャツ
)
の裾で
拭う。泥水の匂いがする。
腥
(
なまぐさ
)
い。
「そこ、あたしの定位置」
ちょうど中原の斜向かいにある椅子を指差して、根津は却って自慢げに言った。朝来て
な、そこ空いてへんかったら
自主休講
(
やすみ
)
やねん――。秋晴れの朝のような湿りけのない声が、
張巡らされた
羅
(
うすもの
)
のような水の膜に鎖され、何処にも
到
(
い
)
くことが出来ずに滴り落ちるまぼろし
を視た。
緩慢
(
ゆっくり
)
とひざを、臑を伝う。――気分が
慝
(
わる
)
い。
「どこの南の島の王族や。席なんか何処でもええやんけ」
「そうでもないわ、大事やで」
したり顔で腕組みをして、根津は
白板
(
ホワイトボード
)
の下の小さな隙間に腰を降ろした。だらりと力を
失くしたような、脚を床に投出して、窮屈そうに背中を丸める。苦もなくそんな
隙間
(
スペース
)
に
収まれるほど、小柄に出来ているわけでもない。
――洋画のティーンエイジャーみたいやな。
控え目に言ってもそれほど凹凸のない輪廓を見下ろし、造形家らしく中原はそんなことを
片手間に考える。領脚辺りで揃えた短い髪がひとすじ、頬にかかる。邪魔そうに払う。
根津は何も変わらない。恐らくは
屹度
(
きっと
)
、中原も。
ただ、いまこの部屋を覆う膜にも似た、半透明の時間だけが、
怪訝
(
おか
)
しな方へ流れてしまっ
ただけだ。それだけだ。
「邪魔なんやったら切れ言うてるやろ」
「煩瑣いなあ。これ以上どうやって切るんよ」
「サル頭とか? 案外似合うかも知れんで、デミ・ムーアみたいで格好ええし」
「喩えが古いわ」
「なんでよ。めちゃめちゃ褒めとるやん。褒め過ぎなくらいや」
「なんですってえ、お姉様に向かって」
だん。
言い切るか切らぬかのうちに、背中に床が叩きつけられた。それほどの、力だった。
驚きの所為ばかりでなく、いきをのむ。根津の知る限り、誰より獰猛な眼をした、男の
口許が逆光の下で歪む。いつの間にかその捌け口を知ってしまった顔だ。それを忘れて、
忘れたことにして、春の陽に舟を漕ぐような日日を食潰してきた男の顔だ。
「痛ァ――」
「――今何言った」
がさがさに罅割れた、ささくれ立った薄い声が捩じ込まれる。がりがりに痩せている
のに、水槽の中のようなこの部屋に、
能
(
よ
)
く響く声だった。耳に馴染む。這入り込まれる。
「…言わんなったら、なかったことになんの」
プールの底に沈んだ幼い頃のように、
囂囂
(
ごうごう
)
と耳が鳴るほどの静けさの中、緩慢とひとつ
瞬きをした。諦めと云うほど、穏やかな気持ちではなかった。
「ネジ、」
答えるために開いた口で、代りに名前を呟いてみる。数えても数えても数え足りぬ雨の
跫
(
あしおと
)
。愛想のない輪廓も、領脚辺りで揃えた髪も、十四の時折って歪めた右中指も、何も――
何ひとつ変わらない。ただ時間だけが怪訝しな形に、雪崩れてしまっただけのことだ。
創り出すことに嫌気が差したのは屹度あのときだ。世界は狭く、殆ど狂気じみて狭く、
それを思い知らされたのは十五になった日のことだった。八月で、強い陽射しが、叩き
つけるように項に降注ぐ
陰影
(
コントラスト
)
の強い坂の下で。似合いもしない蝉の声の轟音の中で。
そうなんや、と、掠れた声で根津は笑った。
ふた月先に生まれて、ほんならあたし、姉ちゃんやなあ。
泥臭い汗に塗れた教壇の
滑
(
ぬめ
)
りが
怯気
(
びく
)
りと右手を止めた。毟り取るように領脚から布を
剥がした。一粒も忘れてはいなかった。一滴も溢してはいなかった。
それなのに、時時、捩じ切れたように思い出せなくなるときがある。
一
耗
(
ミリ
)
にも満たぬ薄い薄い膜に阻まれて、どこにも達くことができずに迷子は乾涸びて、
生まれてしまった痕を遺したくて振絞るけれど、その蠕動は空回りして、空回りして、
沢山だ。何を遺せば。
潤んだ空気は見境なく膚に纏わりついて剥がれない。鼓膜を
翳
(
かす
)
める端切れのような声が
まるで
憤
(
むずか
)
るようで、見たこともない顔で、どうしても思い出せなくて、
「なんも、いうな、ネジ、……、」
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なんか後ろ暗い…三島…?
ありがちに。苦笑。
img:
塵箱
re;
♪
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