冬空




初めて見たとき、触れたら消え去りそうな人だと思った。

黒いパフスリーブのTシャツを着て、おそらくデザイン以上にゆとりのある袖から伸びた
腕は、真夏だというのに白く折れそうな程細く、肘のあたりだけがほんのりと赤かった。
小さく華奢な身体で、大きな課題を運ぶ姿は酷く頼りなくて思わず手を出した。
「運びますよ。工学部棟ですか?」
口に出た言葉は真っ直ぐに届く。島崎は紡いだ言葉に特別な色合いなど持たせず、等しく
真っ直ぐに相手に届かせる希有な人格だった。
だからこそ、彼女も静かに振り返った。

黒目がちの瞳に、引き込まれそうになった。

小さくうなずいて彼女が差し出した課題を島崎が受け取る前に、スニーカーがタイル敷きの
床を蹴る音がした。真夏だというのに長袖のTシャツに痩身を包んだ宮沢がわずかに息を
乱して立っていた。
島崎は、彼に微笑みかける。宮沢もほんの少しだけ口の端をあげて笑った。
「悪りぃ。もう大丈夫だから」
何が、とは言わない。
島崎にいうと、宮沢が手を差し出して彼女の課題を引き取った。彼女が小さく頷いて、消え
去りそうなくらい小さな声で「ありがと」と言った。

触れたら、壊れてしまうのではないか、と思った。

二人が歩き出す。
島崎は見るとはなしにその姿を追った。
普段は足早いと形容するのがしっくりくる宮沢が、時々彼女を確認しながら酷くゆっくりと
歩いていた。
それが、全てを物語っていた。

島崎の恋は、ものの二分で終わった。


文学部棟のすぐそばにある図書館で、彼女を見た。
気の早い人ならば、ウールのコートを取り出す季節にも関わらず、黒いパーカーだけを
羽織っていた。それはどこかでみたデザインだった。身体にあわない、男物のぶかぶかの
パーカーが彼女をいっそう華奢に見せる。
時々、寒そうに手をこすり合わせていた。
島崎は、羽織ったジャケットのポケットに手をつっこんだままひょこひょこと歩いて近
づいた。

「どうしたんですか?」
「待ってるの、」

誰を、とも言わない。
静かな声は、冬空に似合う。

「中に入らないんですか」
「見落とすと困るわ、」

眉を少し寄せて、真実困ったように彼女は言った。


触れると、消え去りそうな印象は少しも変わらない。

赤く染まったほっそりとした指先が目に入る。

触れると、溶けてしまいそうな気がした。

島崎はぐるぐると首に巻いたチャコールグレーのマフラーを解いた。それを差し出す。

「寒いから、どうぞ」

眼鏡の奥で、にこりと笑った。
島崎は、透明なままの言葉を、真っ直ぐに伝えることのできる希有な人間だ。
けれど、そのときの言葉には、珍しく、少しだけ苦さが混じった。

「風邪引きますよ」
「あなたも、」
「俺の家、近いんですよ」

そういってまた、くしゃりと笑った。
彼女はそれでようやく納得したのか、小さな手でそのマフラーをとった。

かすかに、冷えた指先に、触れた。

消えてしまいそうに思った白い花は、静かに、残った。

島崎は、ゆっくりと微笑んで、きびすを返す。
頬をなでる風は冷たい。冬に咲く花を望むにはまだ早い冬の空をそっと見上げ、目を細め
た。

彼女の名は、雪と言う。




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© あさき
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