その朝に、宮沢に会った時に、真っ先に思ったのは「寒そう」だった。痩躯を大きな黒
いパーカーに包んでいるのだが、細い首の白さがやけに目立って、寒そうだった。石川は
藤岡がくれたアイボリーのマフラーに手をやって、そのぬくもりを確かめた。
「おはよう」
声をかけると、レンガ造りの校舎の棟の中で、やけに淋しく響いた。初冬の大学の、一
時限の開始前などろくに学生がいない。目の前を大学に住みついている黒猫がトコトコと
横切っていった。
――不吉だ。
割合験をかつぐタイプの石川が眉をひそめながら宮沢を見ると、彼は一層絶望的な顔を
した。
「難破したんだ、」
「え、誰を?」
どこか理科少年的な部分を残している宮沢から云われた言葉がしっくりこなくて、石川
は問い返した。谷崎あたりに云われたのなら、納得もいく。あぁでも谷崎は自分からナン
パをしに行く必要はないと思っているだろう。中原に云われたのなら、謎は深まるばかり
だ。
宮沢は心底厭そうな顔をして"お前は莫迦か"と云わんばかりの勢いで口を開いた。
「黒猫()。船が天気がわるくて 壊れる事を難破というんだ、覚えとけよ」
ぼそぼそとした声に叱責されて、石川はむくれる。"難破"という言葉くらい石川だって
知っている。ただ、日常語のカテゴリーではない。少なくとも、朝一番に云う言葉ではな
い。
「書いてる童話の話ね」
宮沢ははじめて会ったあの日から飽きることなく猫の冒険話を書いている。
「童話じゃない。小説だ」
時折、天象儀(プラネタリウム)をつ くってみたりするらしいが、基本的にはずっと何かを書いている。それ
を莫迦にされて、長めの前髪の奥で憮然とした表情をした。がすぐに悲愴な顔をした。
あんまり落ち込んでいて可愛想なので、石川は明るい話題をふる。
「このマフラー、彼女がくれたんだ」
「真冬の海で難破した猫にはマフラーなんかない」
「黒とまよったんだけど、髪が黒いから明るい色がいいって」
「身を飾るものなんか、自分の真っ黒な毛皮だけでさ」
「黒い中で、琥珀の眸が輝くのがいいんだろ」
 突然に、声がふってくる。振り返るとジャケットをびしりと着こなした谷崎がいた。宮
沢は剣のある眼で谷崎をにらむ。宮沢は背後に立たれるのがきらいだ。
「違うんだよ。前の主人にもらった赤い首輪してんだよ」
「お前さっき"だけ"って云ったよ、」
石川の指摘にかぶせるようにして谷崎が口を開く。
「主人? 厭で逃げたのか?」
「違ェよ、死んだんだよ。病気で」
「冒険譚に主人は不要だ。」
「何でだよ」
「主人がいるのなら、冒険そのものが主人からの解放になるべきなんだよ、」
横を笑ってすり抜ける人がいる。ビニールバッグの中に入っているのはどうもジャージ
らしい。
「朝っぱらから不毛な話をしているなんて、不健康だよ」
一年次の必修体育を今更とっているその四年は中原だった。中原は「朝から体育、健康
健康」と云いながら去ってゆく。「一年ん時に出席足んなくて落としただけだろ、」谷崎
がやりきれないように呟いた。
随分、先の方を歩いていたいまだに高校生の名残の残っている女の子たちの一団にまじ
る。わっとその集団が湧いた。
何やらウケている。
「…理不尽だ」
女の子に囲まれる中原を見て、ボソリと石川が呟いた。




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© あさき
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