夏が近づく。
 小さな事で機嫌を損ねた、すぐ横にいる彼女に向かって、大切だと、繰り返す。
 形ばかりの恨み事を言の葉に載せながら、彼女は明るい顔でこちらを見る。
 その曇り無く美しい表情を受け止めながら、胸の裡がじくりじくりと痛む。

 問いそびれた問が幾年も幾年も巡り続ける。
 答えられなかった答えの代わりに、谷崎の白い帳面は埋められていく。



 夏に近づく、苛烈な日差しの中で、目を瞑ると曖昧だった筈の影はすぐに像を結ぶ。

 名前一つ、満足に呼ぶことすら出来なかった女――



 陽 炎



 鉄線の巻き付いた塀をぐるりと回り込み、夏の暑さに熱せられた黒い唐草模様の門に
手をかけた。手のひらから伝わってくる熱。それだけで脳の中まで侵されそうだった。
 この家の主の趣味だという園芸は既に趣味の領域を越えて、玄関まで続く蔓草の
アーチを作っていた。夏の暑さと日差しを糧にして伸びる蔓草の瑞々しい青さが、
谷崎には何か得体の知れない不気味なものとして映って、特にこの時期の友人の家は
不得手だった。
 玄関前の蔓草のアーチに辟易して、少しだけ視線を横に逸らすと、古い硝子の入った
露台が目に入った。その考えるだに暑いであろう空間で、酷く涼しげに籐椅子に
座っている女性の姿も目に映った。黒い断髪が、肩で揺れた。
 こちらに気付いた彼女が会釈をしたのだ。
 谷崎も一拍遅れて会釈を返した。
 そして、会釈を返してから不思議と自分の身なりが気になった。この春から
県下随一の進学校に通い出し、その制服を着ている間は一切の気後れなど覚えた
こともないと言うのに、酷く居心地の悪い思いをした。
 夏服になってからまだ日が浅く、ただひたすらに硬い襯衣の襟が酷く気になって、
しきりに手を当てた。
 再び彼女に視線をやると、彼女は既に本の世界に戻っていた。

 格子になった引き戸を挨拶の文言と共に開けると、直ぐに奥から同級である市川が
眩しそうな顔をして出てきた。少しだけ重そうな瞼から察するに今まで寝ていたらしい。
「具合は相当悪いのか」
 真面目に問い掛けたら、市川は小さな声で囁くように笑った。
「だって随分暑いから寝ていただけだよ」
 理由にならぬ理由を平然と口にして、けれども、彼は暑さなどとは無縁な涼しい
顔をした。
「折角来たのだから、上がりなよ」
 彼は夏だというのに真白い手を玄関脇の暗がりでひらめかせて奥へと谷崎を招いた。
 彼の部屋へと行く間に、件の露台を通りかかって、彼は何の前触れもなく歩を止め、
戸を開いた。
「姉さん、」
 呼びかけた刹那、足下に冷気が漂う。冷房の風だ。当然だろう。全面硝子張りの
部屋の中で、真夏、長時間過ごせるものではない。だが、それが彼女には酷く
不釣り合いな気がした。
 くるりとこちらに顔を向けたとき、切りそろえた髪から覗いた白すぎるうなじが
酷く瑞々しくて谷崎は一人で狼狽した。そして、先程気にした制服の襟にまた
手を当てた。
「氷を作ろうと思うのだけど、要る?」
 彼女は微かに頭を振った。黒い髪がつややかに踊る。
「そう、」
 と密やかに弟が告げ、戸を閉めようとするとか細い声が彼を呼び止めた。
「でも、良かったら氷の上に昼顔の花でも載せて持ってきて頂戴」
「酔狂だなぁ」
 姉の頑是無い願いを聞き入れて、弟は彼女と同じように密やかに笑った。
 言葉一つ一つは季節に添ったものに違いないのに、その時の姉弟は季節から
隔絶されたものに思えた。谷崎は酷く遠い者のようにそれを見、首筋を流れた自身の汗に
言いしれぬ嫌悪を覚えた。


 薄い青に染まった硝子皿に盛られた氷を三つ持って市川は自室に戻ってきた。
 黒蜜をかけた一皿を谷崎に渡す。本人は何をするつもりなのかと思えば、開け放した
窓から身体を伸ばした。白い指先は白い昼顔の花を掴んで戻ってきた。
「姉さんの真似」
 満足そうに呟いて、まっさらな氷の上にそれを投げ入れた。細かい氷が
いくらか零れて畳にすぐさま水たまりを作った。
 その涼しげな透明さが先程見た彼の姉のうなじを思い出させた。
 それを忘れようと、彼は勢いをつけて氷をすくいあげて口元に運んだ。口のなかに
薄い氷の味と、さっぱりとした甘味が広がった。
 薄い氷の切片に黒蜜をかけるということを、谷崎の家ではしない。
 意外に雑駁な彼の生家ではせいぜい市販の苛烈な色合いをしたシロップを使う。
それも、末っ子である彼が長じてからは殆ど氷自体を作ることもなくなった。
 市川の家は、あの露台以外に冷房器具はないらしいのに、家全体がどことなく
ひんやりとしている。彼等、姉弟だけではなく、家自体が季節から隔絶されているような
気がするのに、どこよりも季節感を伴った生活をしている。
 今も、行儀悪くスプーンをくわえたままの市川が、白い首を晒して窓の外の空を
のぞき込んでは「夕立、来るかなぁ」と呟いている。
 市川がひょいと顔を元に戻して、一見すると柔和で、その実、じっと見つめいくと
なにやら正体の分からない黒い目で谷崎を射すくめた。
「姉さんが、好きなんだって」
 結論から話す市川の遣り口には慣れたつもりだった。けれど、その言葉に酷く
狼狽して、水滴を帯び始めた硝子の器を取り落としそうになった。
 それを見て、市川が明るい声で笑う。
「何、取り乱しているの?」
「違うよ、君のことじゃないよ。姉さんが好きなのは夕立の中で露台にいることだよ。
きっと自分のために雨が降るように思えるだろうね」
 取り乱してなどいない旨を口の中で呟くと、彼は取り合わずに笑った。そして、
姉の真似をしたという硝子の器に指をかけた。すでに底の方の僅かな氷を残して
水に変わっている。少しでも揺らしたら、最後の一かけの氷まですぐさま溶けて
しまいそうだった。
 制止する声を谷崎がかける前に市川は思いがけず乱暴な所作でそれを手に取った。
 そして開け放したままの窓から硝子の中のものを全て捨てた。透明な水が描く軌跡、
水滴を帯びた白い昼顔が力無く落ちていく生々しさ。その余韻に浸る間も残さずに
市川の伸びやかな青い声が響いた。
「破滅的だなぁ」
 それは自身の姉に向けたものなのか、
 谷崎に向けた言葉なのか、
 それとも、自分自身に向けたものなのか、
 何一つ分からぬ谷崎の視線の先で、市川の言葉の通り夏の雨が降り出した。
降り出した雨が、無数の植物に当たり跳ね返る音が酷く耳触りだった。
 あの露台では、雨はどんな風に映るのだろう。
 市川が言うように、真実、自分の為に降るように思えるのだろうか。
 土台、あの古い硝子に包まれた露台では、雨が降ったら何も見えやしないのだろう。
 けれど、彼は酷く、彼女にそれを聞いてみたいと思った。
 そうして、呼びかけるべき名すら知らないことに気付かされた。



 泊まりに来いと再三市川に誘われて谷崎は漸く重い腰を上げた。
 夏は終わろうとしている。
 手にした鞄の中には書きかけの小説が入っている。未だ、満足のいく作品など
書き上げたことなどないというのに、その帳面の僅かな重みだけが、何か自分を
他の生徒と違うものに仕立て上げているような不確かな誇りがあった。
 茶色いものが目立ち始めた庭をくぐり抜け、少し、躊躇いながら引き戸を引いた。
「ごめんください」
 呼びかけた声に帰ってきたのは、硬質な少年とも青年ともつかない不確かな
声ではなく、涼やかで甘やかな、確かな女の声だった。
 ひたひたと、やはり不思議にひんやりとした廊下を歩きながら、「ごめんなさい、
いま少し出かけているの」と答えたのは彼の人だった。
 真っ黒な髪がさらさらと揺れる。頬にかかった髪を払う指先は、透明に近いほど
白かった。弟同様、どこか植物的で、生々しい肉の感触に乏しい皮膚だ。
 言葉を上手く紡ぎ出せなくて、小さく会釈だけして、退こうとする谷崎を、
彼女は呼び止めた。
「谷崎君、」
 迷いなく、真っ直ぐに、正確に、彼の名を呼んだ。
 瞬間、体が強ばる。首筋を伝う汗と、夏の終わりのものとも、秋のはじまりの
ものともつかぬ虫の音だけが谷崎の感覚を支配する。
「もう弟は帰ってくると思うわ。部屋でお待ちになって」
 ひそやかに、けれど確かに伝わる言葉の波は、明らかに谷崎の姉たちが
発する言葉とは質が違った。
 僅かばかりの着替えが入った黒い鞄を掴み直し、無愛想なほど短く彼は
頷いた。
 板張りの廊下に足をかけると、彼女がすっと手を差し出した。反射的に
谷崎は鞄を差し出す。受け取りながら、彼女は微かに笑った。
「きっとご家庭で大事にされているんでしょうね」
 さっと顔に朱がさしたのを谷崎は自覚する。年上の女の言葉に狼狽する。
無防備にさらけ出された自分の幼さを取り繕う術もなく、ただ静止する。
 彼女は、固まったまま動かない動かない谷崎に鞄を押しつけるようにして、
そして、密やかに訊いた。
「谷崎君には自分より大切なものってある」
 どこか不遜なその問い反射的に「ある」と答えかけ、結局答えあぐねる。
 小説、友人、家族、それらが大切だと答えたところで、畢竟、自分自身が
大切だと答えることと代わりがない気がした。世界は、未だ、谷崎のために、
構成されている。
 彼女は目を細くして、眩しいものでも見るように谷崎の全身を見回して、
踵を返した。
 廊下を真っ直ぐに歩いていく彼女の膝のあたりで、白いスカートが揺れた。
真夏に揺れる陽炎のようにゆらゆらと白い布地が世界を遮断する。

 何か、答えを発したくて、
 彼女を呼び止めたくて、
 口を開いた。
 けれども、
 呼びかけるべき名など、
 知りもしないことに気付いて、
 無様に唇を、固く、閉ざし直した。



 呼びかける資格すらない背中を見て、心の中で、問う。

 貴女には、あるのですか。
 自分のためではないもので構成されている、世界が。
 貴女は、そこに飛び込んで、
 生きていかれるのですか。

 問えない問が胸の裡に増えた。




 それから、幾日もしないうちに彼女は消えた。
 一回りも上の男と消えたのだと、狭い町のなかではしきりに噂されていた。
 それだというのに、不思議と弟である市川は何も言わなかった。
 ただ、一度だけ、ぽつんと、
「破滅的だなぁ」
 とひっそりと愛おしむように口にしたのだけが印象的だった。



 名を呼ぶことすらできなかった彼女のいない家に向かうため、谷崎は
夕暮れの道を歩く。どんよりとした雲が雨を予感させる。
 古びた駄菓子屋の店先で、華奢な老婆が背伸びしながら「氷」の文字が
入ったのれんを下ろしていた。

 ――夏が終わる。

 問えない問はきっと永遠に残る。


 ――自分の為ではない世界で、貴女は生きていかれるのですか。


 ぽつり、と雨粒が落ちた。一粒の雨が、驟雨を連れてくる。
 谷崎はもう一度、しっかりと鞄を掴なおした。この間と同じ鞄には、
やはり同じ帳面が入っている。

 おそらくこの夏最後の夕立になるであろう雨の中、谷崎は、空を見上げた。
 雨の落ちる瞬間の雲を見たいと思う。

 ――夕立が好きだという貴女は、今、何処にいるのですか。
 ――露台では、雨はどんな風に見えるのですか。


 ――自分の為ではない世界で、
 ――自分の為には降らない雨の中で、
 ――貴女は生きていかれるのですか。

 出口を失った問いは、白い帳面の中で、形を変え、ぐにゃりぐにゃりと
歪みながら、永遠に問われ続ける。



 その年の冬の終わり、谷崎の小説は、生まれて初めて小さな文芸雑誌の
小さな賞を得た――





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© あさき
img:雅楽


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