青い布を張り巡らせた小さな空間に、簡単な動力で動く小さな天象儀を置く。彼が小さく細い指先でその点滅器を入れると、微かな音を立てて、ぐるりと世界が動き出した。
 腕の中に抱き込んだ銀繻子の猫が身じろぎをした。銀色という名のその猫をなだめるように、そっと背を撫でた。
 巡る、天象。
 苦労して空けた穴の一つ一つを結んで出来る図形の名を、彼は正確に口に出来た。指を指して、小声で、猫に話しかけるようにしてその名を口にした。一つだけ織り交ぜた秘密の星の名は、銀色という。その星を指すと、腕の中で銀色が短く啼いた。
 藍とも群青ともつかない世界の中に浮かぶ灯は、仄かな月色をしていて穏やかで酷く暖かい。
 それに、違和を感じた。
 彼が理科雑誌や天体図鑑で見る光は、寒々しいまでの透徹な光だ。死んでいくもののとても悲しく美しい光だ。この人工的に織りなされた世界にはない光だ。

   不思議に思って手を伸ばす。

 骨張った膝にぶつかった手がつくる濃い影でさえも深い藍に染まっていく。
 小さな手は直ぐに、青い布に触れた。生地の折り目さえも鮮明に分かる。
 ぞわりと身体が震えた。その震えを感知した銀色が腕の中で厭そうに藻掻いた。その柔らかであたたかな身体を必死で抱え込む。
 光には、本当には触れられない。
 当たり前の事だ。
 いくら幼いとはいえ、彼とて知っていたことだ。
 けれど、酷く吃驚した。銀色を抱く腕に力が入った。銀色は今度こそ大きく動いて、彼の腕に爪を立てた。ガーゼで出来た白いシャツの袖から出た折れそうな程細い腕に血が滲む。
 銀色は素っ気なく腕の中から逃げ出して、小さな空間からの出口に爪を立てた。
 するりと開いた戸が蛍光灯の鈍い光を招き入れる。
 彼の織りなした模造品の天象はあっけなく霧散する。
 あの、理科雑誌を飾る、透徹な世界は彼が得られないものなのだと、知った。
 その時、思い知った。
 巡る、天象の動力の音は微かにし続けている。けれどもう、星々は見えない。煌めかない。ただ子供じみた青さの布が下がっているだけだ。
 ぽつりと零れた涙が、シャツの胸を汚した。
 その水滴が、胸の内に小さな水たまりを作った。酷く柔らかな部分にしみたその水滴は、春泥のように足を取る。質量のある生ぬるさが胸に溜まっていく。酷く居心地の悪いそれを取り去りたいのに、取れない。
 そのもどかしさに、彼は泣く。
 叫ぶように、けれど、声を殺して。
 身体を折って、酷く苦しげに泣く彼を見つけた年の離れた姉が、微苦笑しながら彼を押入の中から引きずりだして、抱き上げた。理由を聞くわけでも、叱るわけでもない姉が、彼の背中をなだめるように一定のリズムで叩いた。やっと嗚咽が咽喉を零れる。しゃくりあげながら、姉の細い頸にしがみついて、火照った頬を姉の肩に擦りつけた。
 あの、孤独なまでに透明な青い世界は、彼の手には入らないものだ。
 どんなに希んでも、彼の手には入らないものだ。


@


 ラヂオの電波が乱れて時々途切れるように、菊名との会話は立ちゆかなくなることがあった。どちらが悪いわけでもない。強いて云えば、天候が悪いとかしか云えない、そんな風に言葉を奪われることがあった。その度に宮沢はとても不安になったのだけれど、ラヂオの電波の乱れが一時的なものに過ぎず、正しい周波数をやがて取り戻すように彼らの日常が戻ってきたために、殊更に考えることはしなかった。無意識に考えることを回避していたのかもしれない。
 だから、菊名があの古いアパートに残されたいかにも中原らしい偏執狂的な置き土産を見たときに、あんな表情を晒し細い声で「嘘、」と呟いたときに、宮沢は何の言葉も持たなかった。持てなかった。
 その事を、今、とても後悔している。
 触れられない、場処がある。
 その事が、宮沢を酷く苦しめる。
 癖のないデザインの携帯電話を見る。彼女からかかってくるときは青い光が明滅するように設定してあるのだが、一度だけ短い通信があった後はそれきり点っていない。
 宮沢から菊名へ通信をすることは適わない。彼女から明確に拒まれたわけでも、そのような素振りを見せられたわけでもない。だが、宮沢は時折、菊名との距離を見失う。何が彼女にとって心地のよい距離なのか全く分からなくなる。彼女が希むようにありたいとも思うのに、その片鱗すらわからない。
 だから、今も彼女に対してどのように振る舞うべきなのか分からなかった。
 彼女が探しに行った相手となど、通話する気力もない。
 途中まで打ちかけたメールを何度も消した。その度に、床や机の上に投げ出したからこの数日で携帯の銀色のメッキは随分剥げてきた。地色である黒を食い入るように見つめる。
 空の穴。
 暗い昏い自己崩壊。崩壊の果てに、光さえも放出できない闇。そんな愚にもつかない着想が、自分自身を追いつめる。あの青が瞬けば、銀色のフォルムをささやかな青に染めながら明滅すれば、こんな息苦しさからは抜けられる筈だ。
 灯りもつけない四畳半のちっぽけな部屋でしかつめらしく机の前に座っているのも馬鹿らしくなって、立ち上がった。視線の高さが変わったせいで、窓の外を走る列車が見えた。

 濃灰の高架を走る橙の灯。
 あの光は何処へ行くのか。
 彼等を、何処に誘うのか。
 そこに宮沢は行けるのか。

 窓硝子を強く叩いた。振動する硝子はびりびりと耳障りな音を立てる。溜まらなくなって、窓を勢いよく開けた。窓の外を流れる空気は冬の割に緩んでいる。もっと、この指先を凍てつかせるほど冷たくあるべきだ。薄氷さえ張らないこんな世界は居心地が悪くて仕方がない。
 窓の桟を拳で殴りつけた。触れるアルミサッシはとても冷ややかだった。その感触に瞬間安堵する。けれど、それもすぐに宮沢自身の体温で温もっていく。苛立って、桟を再び殴った。
 窓を開け放しても、彼の希むようには部屋は寒くはならない。四畳半のちっぽけな部屋なのに。
 桟に手をかけてそのままずるずると座り込んだ。この指先が凍って、何か透明なものに変化すれば良いと半ば本気で思う。けれど、そんなことは叶わないともう宮沢は知ってしまっている。
「お前、施錠はきちんとしろ、」
 傍若無人な声なやけに通る声が響く。誰にも会いたくないというのに、こうやって踏み込んでくる。行動を共にすることが多い割に、しっくりとは行かない相手だ。けれど、こんな場合には不思議と許容できる。好むと好まざるとに関わらず適正な距離を互いに決めている相手だからだろうか。
「寒いだろう。窓は閉めるべきだ」
 大仰な身振りをする男は、大股で四畳半を横切って、宮沢の直ぐ横に立った。窓をぴしゃりとしめて、ただでさえ視線の強い彼はさらに目に力を込めて宮沢を見下ろした。
「まさか、彼女がいなくなってからずっとそうしているわけではないよな」
 そんな莫迦なことがあるわけないだろう。
 答えるのも面倒で、宮沢はしゃがみ込んだ膝に折れそうな程に細い腕を乗せて云った。
「氷点下五〇度になると吐く息の凍る音がするって」
 気配で、横にいる男が険しい顔をしたのが分かる。
「何時までもこんな状態が続くわけじゃない。あの人だって帰ってくるだろうし、彼女だって十分に分別はあるだろう」
「知ってる、」
 短く答えて、膝の頭に額を押しつけた。
 息が凍る音のする世界は、きっと恐ろしく寂しい場処だろう。きっとそこは透明な青の世界だ。生き物の死に絶えていく世界だ。全てが凍てつき、自分が生み出す音が余すことなく聞こえる世界で、ひっそりとひっそりと氷室の中で眠りにつくようにして終わる。終われる筈だ。最期に見るものは藍色の世界に浮かぶ銀の煌きであればいいと思う。宮沢が手に入れることの出来ないものの広がる下で眠りにつくのはどんなにか心地良いだろう。
 膝を抱えたまま動かない宮沢の長すぎる髪を、谷崎がぱさりと乱した。
「しっかりしろ、」
 何処か自分に云い聞かせるような声で云って、谷崎はその場処を動いた。
 地方の名家の出らしい彼が、あと数時間で年の改まるのにもかかわらず生家に戻らないことをその時初めて考えた。
 この場に居ても仕方がない。何が出来るわけでもない。携帯があれば何処からでも繋がることが出来るだろうと、彼を嘲笑う気持ちには到底なれなかった。
 上がり口の程近くにある申し訳程度の台所に何かを置く音がした。
 顔を上げる。コンビニの白いビニール袋からいくつかのゼリー飲料が透けて見えた。
「食えよ、」
 谷崎の置いた白いビニール袋の脇にある赤い苹果が目に焼き付いた。
 菊名が最後にこの家にやってきたときに持ってきた苹果だ。あの時彼女は少し困ったように笑って、「お祖母ちゃんが送ってきたの」とだけ云った。その時にはまだ熟れておらずただの硬質な塊であった苹果の感触を宮沢の手が覚えていた。
 宮沢は突然立ち上がって、四畳半を横切った。苹果を取り上げる。あの日よりも紅みを増した。
「食うのか、」
 気遣わしげな言葉を吐く友人に鋭い一瞥を与えた。
「帰れよ、」
 我ながら酷い云い分だと思った。けれど、それが限界だった。
 一度、反駁を口にしたそうな顔をした谷崎は、それでも大人しく引き下がった。
 がしゃりと無情な音を立てて薄い戸は閉まる。薄い鉄製の、けれど、世界と宮沢を隔てるのには十分な戸だ。取り上げた苹果を手の中で弄んだ。確かな質量が彼の薄い手の中で存在を主張する。
 手の中で苹果を弄びながら、暗い部屋を横断して、また窓の下の壁に背をつけてしゃがみ込んだ。片足だけを伸ばす。黒いジーンズから覗く裸足が我ながら寒々しかった。
 骨張った手で苹果を包み込む。表皮に塗られたワックスが酷くべたついて不愉快だった。身につけている黒いパーカーの裾でごしごしと擦った。
 不図、その手を止めた。
 このパーカーを菊名が来ていたことがあった。宮沢も決して体格に恵まれた方ではない。それでも菊名が着るとそれはまるでワンピースのように大きくて、開いた襟ぐりが酷く寒そうだった。
 例えば、それが仮に不可思議なタイミングで表れた宮沢の知らない服であっても、彼女はその経緯を説明しはしない。それが菊名だ。彼女の世界を構成する一部としてもう取り込まれたのなら、彼女はその存在に対して殊更言葉を足しはしない。それは秘密主義というのではなく、説明しなくてはならないという意識が欠落しているだけのことだった。そのことが、宮沢にはとても悲しい。そして、彼は言葉を奪われる。乱暴に聞ける雰囲気は勿論ない。そして、言葉を吟味しようとすればするほど、言葉は手の中から零れ落ちていく。
 宮沢はまだ不自然な光沢の残る苹果をぽんと宙に放った。丁度、窓の外を走る列車のオレンヂ鉱石のような色合いの光が苹果に反射した。再び苹果を掴む筈だった手が震えて、質量のある紅色を取り落とした。
 鮮明に蘇る物語がある。
 死者の世界に誘われながら、現実の世界を生きる勇気を貰って帰る少年の悲しい物語。あの透徹した世界。
 ――けれどもほんたうの幸いは一体なんだろう。
 繰り返し使われる主題。出される答えも一緒だ。
 ――世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。
 自分によく似た名前の著名人はそう繰り返す。けれど、そんなものは何処にあるというのだろう。彼が掲げる理論はあまりにも美しく、あまりにも崇高で手が届かない。
 手を伸ばした。
 赤い果実に。
 光沢のある表皮は質量を伝える。
けれど、それだけだ。
 赤の塊を投げ出した。
 窓を閉ざされて、戸も閉められて、締め切られた世界。
 伸ばした足を屈めて、膝の上に額を押しつけた。指先で、裸足の指先に触れる。
 手指よりも冷たい足先。けれど、もっと冷えた世界を。もっと透明な青の世界を。


 A


 深々と冷えていく部屋の中で、気を失うようにして眠っていた。
 しばらくそのままの姿勢で横たわっていた。列車の音が間遠になっていた。終列車が終わり、何本かの夜行の他は始発までない。
 静かな世界だ。
 ゆっくりと身体を起こした。
 暦の上では、年が改まったというのに、世界は何も変わらない。
 そう考え、自嘲した。なにを当たり前のことを。グレゴリオ暦で統一される前は、違う暦で生きていたのだ。生きていられたのだ。なにもかも当たり前の事だ。
 カーテンを引いていない部屋の中で明滅するものがある。青白い、光。勢いよく宮沢は起きた。ずっと同じ姿勢でいたせいでこわばっていた関節が鳴った。冷たいフォルムに触れる。二つ折りのそれをこわばった指先でもどかしく開いた。
 ――中原さん見つけたよ。
 たったそれだけの文章。
 返信を打とうとした指先は、釦に触れただけで止まった。寒さで指が強ばっていたからだけではない。紡ぎ出すべき言葉が、分からなかった。また、こうやって止まってしまう。そのたびに、菊名との間に横たわるどうにもできない溝を自覚する。
 ――どうして、
 どうして俺なんかを選んだのかな、
 そう菊名に聞いたら、どんな顔をするだろう。

 携帯を投げ捨てた。畳の上に落ちた携帯は温い音を立てる。
 細い腕で頭を抱えて、冷えた畳の上に転がった。

 目蓋の裏に浮かぶ、青い、星。


 菊名雪は酷く目立つ学生だった。
 もともと建築デザイン科には女子は珍しい。菊名はその容姿で十分目立っていたし、更に少ない女子同士で固まる傾向があるのにもかかわらず誰とも群れなかった。そして、細い指先から創りだすものも十分に人目を引いた。
 大学に入学してた数ヶ月で学内、少なくとも同じ学科の中では十分に名前の知られる存在であった宮沢は、年相応の好奇心と気軽さで菊名に声をかけようとした。
 人気の少ない硝子張りの陶芸教室の中に菊名の細いシルエットを見た。床を大股で横切った。ろくに手元も見ずに声をかけた。廊下に流れていた文化祭準備の喧噪をそのまま纏って、その喧噪に少しだけ酔ったように極少数の気安い仲間たちだけに見せる軽薄な声が静謐な教室に響いた。
「奇麗じゃん」
 隅で黙々と作業に没頭していた菊名はその手を止めて、しゃがみ込んだ姿勢のまま宮沢を見上げた。無造作に一つにまとめた髪が跳ねた。巴旦杏の形をした瞳が宮沢を射抜いた。
「こんなのちっとも奇麗じゃない」
 冬の日のような声が凛と響いた。冷ややかに告げた彼女は、立ち上がるとそのまま作品を放置して立ち去った。その華奢な背に強い拒絶を感じて、宮沢はそこから動けなかった。
 菊名が残したものを見た。小さな茶碗が二つ、あった。
 青い釉薬の塗られたそれは一つはまだ完全な形を保っていて、もう一つは打ち砕かれた後だった。白い切片を覗かせた破片が散らばっている。その欠片の一つを宮沢は取り上げた。指先よりもずっと白い。この肉の下にある骨もこんな色をしているのだろうか。益体もないことを考える。
 菊名が残した磁器はその切片の一つまでもが、宮沢を拒絶していた。それを見て、宮沢は菊名を酷く傷つけたのだと思った。
 白に浮かぶ青を見る。とても孤独に、繊細に描かれた模様の一つ一つが宮沢の気持ちを落ち込ませる。一つ分の破片を集めて、完全な形を有している青磁に入れた。その姿は破片が散っているときより、よほど寂しく見えて、悲しくなった。

 菊名が残していった器をどうすることも出来ずにただ触れた。
 あれは、宮沢が触れることのできないものだ。
 あれは、宮沢が触れることの出来ない、寂しくて遠く青いものだ。
 菊名の創った器は、完全に他者の介在を拒絶していた。
 青の世界。
 子供の頃に触れられなかった天象儀が織りだした星々。
 宮沢が本当には分からない、青の世界を描き出す文人の言葉。
 小さな小さな切片に指先で触れた。
 硝子化した素地はざらついて、指先から直ぐに離れていく。
 ぱらぱらと落ちた純白透明性。
 酷く乾いたそれは、宮沢のことなどまるで意に介さずに、光を浴びて冷たく輝いた。

 そのことが、宮沢を酷く孤独にさせた。


 アクリル板を切って貼り合わせて創った宮沢の地球儀を模したライトは客を呼んだ。海の部分が透明な青に光るように仕掛けられているライトだった。
 そこに映し出される青は間違いなく宮沢の持っている青だ。だが、菊名の創り出した青には届かない。届かないその場処にはもっと透明な青の世界があるはずなのだ。透徹した、心地よく冷たい世界が。
 建築デザイン科が展示室として使用している教室を訪れる客たちは次々と宮沢の作品の前で足を止める。それだけのネームバリューはあると宮沢自身も理解していた。だが、その名前にまつわるもの以外、否、本質と云えるものを見て貰えているのか、それは果たして謎だった。
 彼等は宮沢の作品の前で立ち止まり、それを眺めた後に口々に「奇麗だ」と言葉を紡ぐ。
 ――本当かよ。
 浮かんだ言葉は身体の奥深くに沈んでいく。
 子供の頃知った自分の中の淀む。あの頃から何度も何度も取り出して眺めて、それは時々小さくなったり大きくなったりと形を違えはするけれど、完全に消え去ることはないのだと今はもう理解している。
 奇麗という言葉を一つ聞く度に指先の温度がじわりじわりと下がっていく。指先を無意識に擦り合わせた。
 その時丁度、菊名が展示室の戸を開けて入ってきた。すっと教室を横切る。宮沢に向かって彼女は小さく会釈した。宮沢の次の展示室の当番は菊名だった。
 先日のやりとりで確実に嫌われたと思っていた宮沢は瞬間身構えた。
 菊名は透けるような指先で、宮沢の展示物を指した。
「あれ、宮沢くんのでしょ?」
 宮沢は短く頷いた。菊名はぽつんと言葉を残した。
「きれいね」
 初め、この間のやりとりの仕返しなのかと思い、宮沢の表情は強ばった。だが、宮沢より随分下の一にある菊名の表情に毒気はなかった。むしろ、感心したような顔をしていた。
「宮沢君は、人に何かを伝えようとするね。すごく。
 作品、見てるとわかる。とても、きれいね」
 そう云ってはにかんで笑った菊名を見たときに、宮沢は彼女の深くに意図せず触れた気がした。
 これだと思った。
 宮沢の持つ青と、彼女の持つ透徹した青の違いは間違いなくそこにあるのだと思った。

 その日を境に、菊名と宮沢は沢山の言葉を交わすようになった。


 B


 ――今日帰るね。

 菊名から短いメエルが入ったのは、その日の明け方だった。
 一月七日。明日から大学が始まるという日になって菊名はようやく実家から戻ってくるという。
 菊名は大学に入るまで逗子の実家で祖母と二人だけで暮らしていたらしい。不確定なのは宮沢自身が菊名にその点を詳しく聞いていないからだ。聞かなければ菊名が自分から話すことはないと分かっているのに、彼は彼女からそれをどう聞き出して良いのか分からなかった。何もかも分からないことだらけだ。
 菊名のメールから数時間が経ってから石川から、突然帰ってきた中原を吊す会を催すというメエルが来たが無視した。
 突然に目の前から消えた中原に云いたい言葉はいくらでもある気がした。けれど、ここ数日、ろくに眠っていない頭では何も云うべき事などない気もした。
 今はただ、菊名を迎えに行くだけだ。v  けれど、菊名を前にして云うべき言葉も見当たらなかった。


 電車の到着時間が近づいて、居ても立っても居られなくなって飛び出した。薄い長袖のシャツ一枚の身体に寒風が当たって砕ける。寒さで大袈裟に震える身体を両腕で抱えた。暗い感じのする薄黄色の電灯の下の小さな改札をくぐり抜ける人たちの数はそれほど多くはない。
 視力は決して良くはないから、そこをくぐり抜ける人たちの姿はおぼろだ。それでも菊名を見落とすなどとは決して思ってはいなかった。
 真っ先に、青の強い紺色のマフラーが目についた。華奢な身体に少し大きい感じのするピーコートを着て、何処かおぼつかない足取りで歩いてくる。
 寒さを忘れた。
 涙が一滴零れた。
 なんだって菊名はそんな風に不安な足取りで歩くのだろう。
 まるで、ここに存在してもいいのかと、ここを歩いて良いのかと確認するように少し不格好にこわごわと歩く。
 それがとても悲しかった。
 改札の向こうで菊名が宮沢に気付いて酷く驚いた様な顔をしてから、微かに笑った。
 それがとても悲しかった。
 真っ先に浮かぶのが、笑顔ではなく、何故ここに宮沢がいるのかという不可思議な表情であることがとても悲しかった。そして、それから漸く自分と宮沢の関係がなんなのかを確認するような間を持った後で笑う彼女が悲しかった。そうやって被害妄想染みたことしか思えない自分が、とても悲しかった。
 俯いた拍子にぽたぽたと零れた涙が、駅のコンクリートに小さな染みを作る。同じ小さなものなのに、夜空に浮かぶ星々とは違うとてもみっともない染み。
 ぱたぱたと小さな足音がして、酷く貧弱な身体しかもたない宮沢から見ても華奢としか云いようのない小さな菊名が目の前に立つ。
「泣いてるの?」
 細くて小さな声が耳を打つ。
 手の甲で乱暴に涙を拭った。
「うん、少しね」
 乱暴に紡いだ言葉で二人の関係が分断される。あんなに会いたかったのに、顔を見ることも碌に出来なくて、ただ乱暴な空気だけが漂う。
「何処に、」
「え、」
「何処に行ってたんだよ、」
 自明なことを訊いた。落とした宮沢の視線の先にある菊名の手に力が入って、指先が白くなった。こんな風に彼女を問いつめる為にここに来たわけではない。
「何しに行ってんだよ」
 けれど、口から零れ出すのは乱暴で強い言葉ばかりだ。
 云ってはならないと分かっているのに、それでも口から零れだした。とても苦しかった。
「どうして、俺なんだよ。どうして、中原さんなんだよ」
 鬱陶しい前髪越しに見えた菊名の顔が揺らいだ。こんな顔を見たかったわけじゃない。いつだって彼女に笑っていて欲しいと思っていたのに。
 まだぽたぽたとみっともなく涙が零れた。
 泣くのはいつも自分ばかりだ。
 菊名が泣くところを宮沢は見たことはない。
 菊名が小さな口を開いた。白く小さな歯が覗く。それを見た瞬間に宮沢は口早に言葉を重ねて、菊名の言葉を塞いだ。
「何処にも行かないでよ」
 菊名が何かを云うのが怖かった。聞きたくないと身勝手に思って、聞きたくないばかりに自分の要求だけを口にした。
 菊名は緩やかに微笑んだ。
「あたしはどこにもいかないよ」
 小さな指先が頬を撫でた。
 冷たく清廉な指先だった。
「泣かないで、」
「うん、」
 くぐもった声で返事をして、その指先に安堵した。
 そうして絶望的な気持ちになった。

 本当はずっと前から、中原が失踪するずっと前から気付いていたのだ。
 菊名が中原に惹かれていることに。
 そのくらい菊名の事を見ていた。その視線の先を見ていた。
 けれど、菊名は少なくとも何も知らせずに不意に宮沢の前から本当にはいなくならないことも確信めいた強さで知っていた。
 けれど、宮沢は酷く臆病だから、菊名を疑った。
 そのことが宮沢をやりきれなくする。
「俺は莫迦だね、」
 ぽつんと呟くと、菊名は酷く苦しそうな顔をして、頬から滑らせた手で宮沢の手を強く握った。
 宮沢は菊名が掴んでいない方の手でもう一度強く涙の跡を拭うと、出来るだけ彼女を傷つけないようにそっと手を外した。そんな風に涼やかな手で、優しく強く握られるような資格は自分にはないのだと思った。
 とても弱い人間だから。
 自分のことしか考えられない、とても弱い人間だから。
 菊名の優しさも、心地良い冷たさも、希んではいけないのだと思った。
 だから、宮沢はそれ以上何も云うことが出来なくなって、彼女に踵を返し、冷たく暗い部屋にたった一人で戻った。
 夜が更け、次の朝が来ても彼の部屋のドアは固く閉ざされたままだった。


 C


 万年床の中で、何度目かに目を覚ましたときに、菊名の小さな顔が目に入った。最初に覚えた筈の驚きは何処か彼方に消え去り、笑い出したいような泣き出したいような奇妙な懐かしさがあった。
 けれど、彼女に向ける適切な言葉は相変わらず見つからなくて、途方に暮れた。
「大丈夫?」
 珍しく菊名の方から口を開いた。その気遣わしげな声を聞いて、とても悪いことをしたのだと思い知らされた。
 声を出さずにいた喉を震わせた。
「なんでいるの?」
 掠れた声が紡いだのはあんまりな言葉で、それでも菊名は眉を顰めるでもなく淡々と口を開いた。 「三日も休んでたから」  細く、小さな声で、ぼそぼそと答えるのが酷く懐かしい。
 涙がじわりと滲んだ。
 とても弱い人間だから。
 その小さな顔に手を伸ばしかけて、布団の中で温もった手で彼女に触れるのが怖くて宮沢は手を布団の中に引っ込めた。宮沢がかたくなに布団の中に両手を突っ込んでいたら、細くて小さな指先が、目にかかるほど伸びた宮沢の髪を払った。
 余分な肉のない顔に触れた小さな手は、ひんやりとして心地良い。
 宮沢は固く瞳を閉じた。
 瞼の裏に浮かぶ、色とりどりの星々。その中でも、蒼い星がさえざえと光る。そして、星を包み込むように広がる青い青い闇。恐ろしいほどの静寂に満ちた、美しくて孤独な世界。
 菊名の見る世界。
 きっと中原が見ている世界。
 宮沢には見ることの出来ない世界。
 零れた涙を、菊名が拭った。
「苦しいの?」
 宮沢は静かに頸を振った。

 寝ついて三日。
 人と碌話さなくなってからは何日が過ぎただろう。

 あの孤独な世界に近づけないのなら、自分一人を世界から隔絶して誰とも話さず、誰も求めずにいようと思った。そうやって世界の片隅にぽつりと存在するのなら、少しは何か新しい青い世界が見えるのではないかと、愚かにも思った。
 なんて幼くて身勝手な思い違いだろうか。
 こんなにも人を、菊名の存在を希んでいたのだと思い知らされる。
 本当に莫迦だ――
 自分自身をあざけって、笑おうとした。けれど、唇から漏れたのはみっともなく震えて細い、掠れて引きつれた笑い声だけだった。

 どんなに求めても、宮沢の手には入らない青い世界。
 冷たく澄んだ、美しく、青い世界。
 幸せの形も、幸せの在処も知りはしない。
 何も希まずに、何も求めずに生きていくことが、宮沢には到底出来ないというのならば。
 ならば。
 菊名がいつか驚くよりも先に笑えるようになるまで、怖がらずに両足で道を歩けるようになるようになるまで、その冷たい手を握っていていても良いだろうか。
 彼女が許す限り、同じ世界を見ることは出来なくとも、直ぐ傍に居ても良いだろうか。

 幸せの形は分からない。
 幸せの在処など分からない。
 けれども、いつの日か菊名が本当に。

 菊名が何を希んでいるのか残念ながら宮沢には本当には分からない。
 けれど、それならばせめて、菊名をとても大事にしようと思う。

 こぼれ落ちた涙が耳の横をかすめる。その涙を拭おうとした菊名の小さな手を掴んだ。

 冷たい手だ。
 小さくて華奢な手だ。
 脆い、手だ。
 けれど、なによりも優しい手だ。
 なによりも大切なものを宮沢は握り締める。

 ゆっくりと目を開いた。広がるのは、青い青い闇ではない。不安そうな菊名の顔が直ぐ傍にある。
 情けねぇなぁ、と思いながら涙声で宮沢は云った。

 「何か話してよ」

 宮沢には見ることの叶わない世界。
 宮沢が手に入れる事の出来ない世界。
 けれど、そこは菊名の見る世界だ。菊名のいる世界だ。
 だからどうか、菊名のいる、青いとても奇麗な世界の事を教えて欲しい。

 菊名はこくんと頷いて、細い声でやさしい物語を紡ぎ始めた。





「銀河鉄道」
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© あさき
img:ふわふわ。り
re


何かありましたら

55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット